top of page

三番目の風  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
9月28日
読了時間: 10分



【最終話】 三番目の風


音がなくなって目が覚めた。

二日ぶりの静けさだった。カーテンが垂れている。

窓を開けると、空気が乾いていた。

昨日まで黄色く濁っていた空から砂が落ちて、

対岸の旧市街の輪郭が、剃刀で切ったように立っている。


海峡には白波がなかった。

石板のような青が横たわって、

その上を白いフェリーが一隻、ゆっくり進んでいた。

船が動いている。荷物も動く。


デニズは机にいた。

ベッドではなく、窓際の書き物机だ。

ホテルの便箋を何枚か広げて、ペンを持っていた。

三好が起きたことに気づいて、顔だけ上げた。


「寝てないのか」

「寝ました。少し」

便箋には、日付と数字と、短いトルコ語が並んでいた。

表のような形をしている。


「数えているのか」

「思い出しています」

彼女はペンを置いた。


「三好さん。私、たぶん全部持っています」

「全部」

「署名した書類の控えです。会社の分とは別に、自分のぶんを取ってあります。名古屋にいたとき、そうしろと教わったので」

「誰に」

「覚えていません。たぶん、工場の人です」

彼女は少し笑った。

「日本の人は、みんな控えを取ります。あれは、うつるんです」

三好は便箋を見た。


何年も、誰にも言われずに、この女は自分の署名を一枚ずつ残してきた。

疑っていたからではない。

書類は嘘をつかないと思っていたからだ。

嘘をつくのは人で、紙はその人が書いたことを、そのまま持って歩くだけだ——と。

その信じ方が、いま、彼女の手元に全部残っている。


朝食は屋上で食べた。

風のない朝の屋上は、昨日までとまったく別の場所だった。

テラスの椅子が全部出ていて、旧市街が一望できる。

トマトときゅうりと、白チーズと、オリーブと、茹で卵。

この国の朝食はいつもこの並びで、毎朝これで足りてしまうのが、少し悔しい。


「今日は何ていう風なんだ」

三好がそう聞いたのは、ただの雑談のつもりだった。


「カラエルです。北西から来ます。雨のあとに二日か三日吹いて、空気を乾かします」

「昨日のはロドスだったな」

「ロドスと、ポイラズ。この街の人が呼ぶのは、その二つだけです」

「二つしかないのか」

「八つあります」

彼女は指を折った。


ユルドゥズ、ポイラズ、ギュンドーウス、ケシシレメ、クブレ、ロドス、ギュンバトゥス、カラエル。

八方位に、全部名前がついている。

「でも三番目から先は、名前があっても呼ばれません」



10時の船に乗った。

一昨日、柵が下りていた桟橋だ。

渡し板の鎖が外れて、人が普通に乗り降りしている。

カラキョイからカドゥキョイまで二十分ほど。

渡れなかった海を、今日は二十分で渡れる。


甲板に出ると、風が冷たかった。

彼女は髪を押さえなかった。

この街で育つと、風にいちいち抵抗しなくなるらしい。


カドゥキョイの市場は、坂と路地の塊だった。

魚屋の氷が溶けて、道が濡れている。

ピクルスの瓶が壁一面に並ぶ店。

香辛料。乾いた豆。

売り声が二重にも三重にも重なる。

三日前に27,000円のコースを食べた街と、同じ街だとは思えない。

路地を一本入ったところに、その店はあった。


チヤ・ソフラス。

メニューはない。

入ると正面がガラスのショーケースになっていて、二十種類くらいの料理が並んでいる。

指を差せば、店員が何なのかを教えてくれる。

トルコ語ができなくても回る。


やっているのは、この国から消えかけている地方料理を二十五年以上かけて集めてきた男だ。

村から村へ回って、その土地の婆さんが作っていたものを記録して、この店で出している。

昨日の夜、同じ思想の店で27,000円を払った。

ここは一人700リラ、2,200円だ。

酒はない。音楽もない。

皿と、話し声と、外の市場の音だけがある。


デニズが選んだのは、麦と豆を煮たものと、

青い葉を刻んでヨーグルトで和えたものと、

羊の肉を果実と一緒に煮込んだものだった。


羊は甘かった。

砂糖の甘さではなく、乾かした果実が何時間もかけて肉に移った甘さだ。

噛むと繊維の間から汁が出て、その汁のほうが肉より濃い。


「これ、どこの料理だ」

「南東です。うちの祖母とは、逆側」

彼女はスプーンを置いた。


「祖母のところは魚を塩に埋めて、こっちは肉を果物と煮ます。同じ国なのに、何も似ていません」

それでも、どちらもこの店の同じショーケースに並んでいる。


そこで三好は、教えるべきことを教えた。

控えを、自分の手元だけに置いておくな。

家にも、会社にも、一か所しかない紙は、無くなったときに無かったことになる。

日付の残る形で、自分の手の届かない場所にも置け。


誰に出すかは、実はそれほど重要じゃない。

いつ出すかで、全部決まる。

先に出せば、あなたが言い出した人になる。

遅れて出せば、隠していた人になる。


そして、いちばん大事なこと。

あなたは「指示された」と言える立場にいる。

ただしそれが言えるのは、指示を受けた記録が残っているときだけだ。

口で言われたことしかない人間は、何も言われていない人間と、書類の上では同じになる。


デニズは一つも質問しなかった。

聞き終えて、少しのあいだ、外の市場の音を聞いていた。


「三好さんは、どうしてほしいですか」

「それは言わない」

「なぜ」

「俺が言ったら、あんたが決めたことにならない」

彼女は頷いた。

納得した顔ではなかったが、理解した顔だった。


三好はコーヒーを頼んだ。

粉が沈むのを待つ時間が、今日はやたらに長く感じた。


「カラエルは、」

と三好は言った。

「呼ばれないだけで、吹いてはいるんだろう」

「吹いています。今日みたいに」

「船も動いた」

「動きました」

三好はカップを置いた。


「三番目の風には、なれるかもしれない」


デニズが顔を上げた。

何か言いかけて、やめた。

三日のあいだに、この女がそれをやるのを三好は三回見ている。

今回は、やめたあとに少しだけ笑った。

帰りの船で、二人はほとんど喋らなかった。


カラキョイの桟橋に着いて、渡し板を降りて、それで終わりだった。

空港へは別の道を行く。

彼女はアジア側に住んでいる。

つまり、ここから先は逆方向だ。


「気をつけて」

「そっちも」

それだけだった。

抱きもしなかった。

三好が振り返ったとき、彼女はもう船着場のほうへ歩き出していて、

コートの背中が人の中に混ざるところだった。


海を渡れなかった日に近づいて、渡れた日に別れた。

順番としては、たぶん正しい。



日本に帰って、報告書を書いた。

値決めは通った。

数量も、納期も、先方の提示のままだ。

三好は事実だけを書いて、荷受人の欄については何も書かなかった。

書けば、知っていたことになる。


案件は、その後、静かに止まった。

三好が止めたのではない。

ある日、船積みの書類から荷受人が一社、消えていた。

理由の説明はなかった。

誰も何も言わなかった。

「触るな」と打ってきた人間とは、帰ってから廊下で二度すれ違った。

二度とも、別の案件の話を普通にされた。


会社というのは、そういうふうに出来ている。

知らないでいるのが上手い。



帰国して一か月半ほど経ったころ、一枚の書類が回ってきた。

別の部署からで、三好の案件とは直接関係のない束の中に、

たまたま挟まっていた一枚だった。

トルコ側から日本側に送られた、船積みの写しだ。

本来なら先月も、先々月も届いているはずのもの。


届いていなかった写しが、届いていた。

差出人の欄に、デニズの名前があった。

彼女がやったのは、それだけだった。


告発でも、内部通報でもない。

送らなくていいと言われた紙を、送った。

本来やるべきことを、やるべき相手に、やっただけだ。


ただ、その一枚には彼女の署名が入っている。

出した瞬間から、彼女は「知らずに書いていた人間」ではなく、「知っていて出した人間」になる。

数えられる場所に、自分から立ったということだ。


三好はその紙を二度読んで、束に戻した。

連絡はしなかった。したところで、何も足せない。



それからさらに二か月半。

年が明けて、三好はまたイスタンブールに来た。


別の案件だ。相手も違う。

ただ空港からの高速で運転手が窓を10センチ開けたところは同じで、入ってきた風の匂いも同じだった。

潮とディーゼルと、どこかで焼いている肉。


会議は市内のオフィスビルで、窓からボスポラスが見えた。

今日は凪いでいる。


先方が三人入ってきた。

最後の一人の顔を見て、三好は一秒だけ動きを止めた。

止めたのは自分でもわかった。

動じた時点で負けが確定する、というのが三好の鉄則で、

その鉄則がこの日は一秒だけ間に合わなかった。


デニズだった。

名刺の社名が違う。

肩書きは、前と同じ「輸出・通関」だった。


「三好さん」

彼女は初めまして、とは言わなかった。

それだけで十分だった。


会議は一時間半で終わった。

仕様と、単価と、納期の話だけをした。

彼女は必要なことだけを喋って、あとは書類を見ていた。


一度だけ、彼女が質問した。

「この荷物の最終の仕向地は、書類のとおりですか」

先方の営業が、そうです、と答えた。

それで終わりだった。

誰も気に留めなかった。

実務の確認として、当たり前すぎる質問だ。


三好はその一問を聞いて、少し息をついた。

この新しい会社が、前のところより真っ当かどうかは三好にはわからない。

名前を貸されているだけかもしれないし、まともな会社かもしれない。

一度会議をしただけの相手の中身が見えるほど、この仕事は甘くない。


ただ、この女はもう、同じ形では使われない。

書く前に、確かめる側に回っている。


そのあと一度、彼女が自分の手を見た。

書類をめくる手を止めて、手のひらを上に向けて、それから裏返して、爪を見た。

一秒か、二秒。誰も気に留めなかった。


三好だけがそれを読んだ。

あの夜、ホテルの部屋で

「私が書いたのは、何枚ですか」と聞いたときと、同じ手つきだった。

彼女はまだ数えている。

数えているということは、まだ持っているということだ。


そして、まだ持っているということは、

この女はいまも、いつでも同じことができる場所に立っている。


会議のあと、二人は何も話さなかった。

エレベーターは別だった。

彼女は先方の二人と一緒に乗り、三好はその次を待った。

扉が閉まりかけたところで、彼女がこちらを見た。


一度だけだった。

笑わなかったし、何も言わなかった。

ただ、視線を外さなかった。

一秒か、二秒。

さっき自分の手を見ていたのと、同じ長さだった。

扉が閉まった。


三好はその場に立って、階数の表示が下がっていくのを最後まで見ていた。

見たところで、何がどうなるわけでもない。


窓の外で、海がわずかに白く立ち始めていた。

南西から来る風だ。

またロドスの季節が始まっている。


この街の風には八つ名前があって、人は二つしか呼ばない。

三番目から先は、吹いていても数えられない。


デニズは三番目の風だった。

誰にも呼ばれないまま、止まっていた船を動かした。


<完>



Çiya Sofrası(チヤ・ソフラス)

アジア側カドゥキョイの市場の路地にある食堂。

メニューはなく、入って正面のショーケースに並んだ二十種類ほどの料理を指差して注文する。

トルコ語ができなくても成立するので、初めての一人客でも困らない。

やっているのはムサ・ダーデヴィレンという人で、二十五年以上かけてトルコ各地の村を回り、消えかけた郷土料理を記録しては、この店の皿に戻している。

南東アナトリアの肉を果実と煮込んだもの、黒海側の魚、中央アナトリアの麦料理が、同じショーケースに並ぶ。Netflixの料理番組でも紹介された店だが、店内は完全に地元の食堂のまま。

毎日11時から22時。一人あたり700リラ前後、約2,200円。酒は置いていない。音楽も流れていない。皿と、話し声と、外の市場の音だけがある。

前の晩に27,000円のコースを食べていても、こちらの方が記憶に残る——そういうことが、この街では起きる。

カラキョイ〜カドゥキョイのフェリー

ヨーロッパ側のカラキョイからアジア側のカドゥキョイまで、船で二十分ほど。

地下鉄でも行けるが、海を渡る意味がまるで違う。

ただし南西の風(ロドス)が強い日は欠航する。

この街では風が予定を決めるので、アジア側に用があるなら、朝いちばんに海を見ておくといい。



コメント


bottom of page