三番目の風 [第1話 全4話]

更新日:9月28日

【第1話】 銀行通り
9月の終わりのイスタンブールは、昼はまだ25度を超えていた。
空港からの高速で、運転手が窓を10センチほど開けた。
入ってきた風が生ぬるい。
潮とディーゼルと、どこかで焼いている肉の匂いが混ざっていた。
ヨーロッパに降りたはずなのに、鼻が最初に拾ったのはアジアの匂いだった。
この街はそういう場所らしい。
三好が泊まるのは、カラキョイのバンカラル通り。
直訳すれば銀行通りだ。
19世紀の終わり、帝国の金はこの200メートルほどの坂に集まっていた。
その名残が、石の塊のまま両側に残っている。
両替屋の表示が、前に来たときより一段悪くなっていた。
この国の金は毎月少しずつ軽くなる。
ホテルは坂の下から五軒目。
1863年に建った銀行の建物で、そのまま宿になっている。
ロビーに入って、三好は少し笑った。
金庫があった。
開いたままの、扉の厚みが30センチ近い鉄の塊。
その周りをガラスが半円に囲んで、カウンターになっている。
金を仕舞うための部屋を、金を使うための部屋に変えたわけだ。
改修したのはこの国の建築家で、費用は聞いて呆れる額だったと聞いている。
悪趣味の一歩手前で止まっている。その止め方が上手い。
明日は午前10時から商談だった。
相手はゲブゼの部品メーカー。
三ヶ月越しの案件が、ようやく最終の値決めに入る。
出張は慣れている。
一人で動くのは嫌いじゃない。
段取りが崩れたときに、誰にも説明しなくていいからだ。
翌朝、マルマライ鉄道に乗った。
イスタンブール市内からゲブゼまで、
ボスポラス海峡の下をくぐって一本で行ける鉄道だ。
海の下を電車で抜けるという発想が、
この街ではもう日常として馴染んでいる。
通勤の背広と、膝に袋を抱えた老人と、制服の高校生。
朝の電車はどこの国でも同じ顔をしている。
会議室には三人いた。
購買の部長。技術の若い男。
それと、名刺の肩書きが「輸出・通関」になっている女だ。
168センチくらい。52、53キロ。
黒髪を後ろで一つにまとめている。
眉が濃い。この国の女に多い、輪郭のはっきりした眉だ。
瞳は褐色だが、窓からの光が入ると少しだけ緑が混じって見えた。
33か34。化粧は薄い。
左手の薬指には何もない。
「デニズです」
名刺を差し出しながら、日本語でそう言った。
「三好です。日本語はどこで」
「アンカラの大学で四年、名古屋で二年です」
アンカラは首都だ。
官庁と大使館しかないような街で四年、日本語をやって、
それから名古屋で自動車をやった。
役所の言葉と工場の言葉を、両方知っている人間ということになる。
書類を通す側に置かれるのは、だいたいそういう人間だ。
発音に癖がない。
二年でこうはならない。
この女は日本語を仕事にしたことがある。
商談は、拍子抜けするほど早く終わった。
単価を動かさない、と三好は最初に言った。
部長は渋い顔をして、二回だけ抵抗して、それから頷いた。
二回。数えるほどしかない。
詰まるべきところで詰まらない商談は、
たいてい別のところに何かある。
三好は昔からそう思っている。
ただ、思っただけで顔には出さなかった。
デニズは、そのあいだ一度も喋らなかった。
ただ、卓の上に広げた書類の一枚を見ていた。
船積みのスケジュールと、荷受人の欄が入った一枚だ。
彼女の視線はそこで二秒ほど止まって、それから離れた。
爪が短い。
書類をめくる手つきが、紙の端を潰さない。
毎日大量に触っている人間の手だった。
部長が握手をしに立ち上がったとき、
デニズが初めて自分から口を開いた。
「三好さん。この案件、原産地の書類はどちらが取りますか」
トルコからEUに出すとき、その一枚があれば関税がゼロになる。
誰が取るかで、金の通り道が変わる。
通関の担当が最後に確認する質問としては、正しい。
正しすぎる、と三好は思った。
単価に一言も口を出さなかった人間が、
最後の一分でそこだけ聞いた。
「そちらで取ると聞いています」
「はい」
それだけだった。
彼女は頷いて、書類を閉じた。
エレベーターで一階まで降りるあいだ、二人になった。
三好は仕事の話をした。
今回の入り口はここだと決めていた。
入り口は狭いほうがいい。
狭い入り口を堂々とくぐることのほうが、ずっと難しい。
そして仕事の話は、この国のこの立場の女に対して、いちばん狭い入り口だった。
彼女が一日でいちばん多くの言葉を持っている場所であり、
同時に、いちばん警戒を解かない場所でもある。
「大学の四年は、日本語だけを」
「文学もやりました。ほとんど忘れましたけど」
「今は書類ですね」
「今は書類です」
彼女が少しだけ笑った。
笑うと、眉のきつさが消えた。
一階に着く手前で、三好は話を切った。
続けないことが大事だ。
続ければ、ただの雑談になる。
雑談になった相手は、もう一度会う理由を作らない。
会う理由は、相手に作らせるほうがいい。
自分が何を狙っているのかは、まだ分けられていなかった。
あの二秒の視線を確かめたいのか、この女ともう一度飯を食いたいのか。
たぶん両方だった。
両方だと自分で気づいている時点で、たちが悪い。
ホテルに戻ったのは18時過ぎだった。
この時期のイスタンブールは日が落ちるのが早い。
19時には街灯が要る。
シャワーを浴びて、ロビーに降りた。
夜の金庫は、昼より良かった。
照明が落ちて、鉄の扉の傷まで見えるようになる。
ガラスのカウンターは職人が一枚ずつ吹いたもので、縁が少しだけ歪んでいる。
その歪みが、背後の酒瓶を溶かして映す。
ロビーの端にはグランドピアノと、美術書だけを集めた棚があった。
弾く人間はいない。
置いてあるだけだ。
置いてあるだけのものが多いホテルは、たいてい趣味がいい。
ここは1泊170ドルから、高い部屋でも260ドルほど。
出張の規程に収まる。
この建物にこの値段で泊まれるという事実を、
三好は毎回どこかで人に言いたくなる。
ラクを頼んだ。
この国の国民酒で、ブドウの蒸留酒にアニスを利かせてある。
水を足すと、透明だった液体が一瞬で白く濁る。
ライオンの乳、とこの国の人間は呼ぶらしい。
40度を超えるので、水と交互にやるのが作法だ。
甘草の匂いが立つ。
正直、うまい酒ではない。
一口目はいつも「なんだこれは」と思う。
つまみに小皿を二つ。
焼いた茄子をヨーグルトとにんにくで和えたものと、
唐辛子とトマトを刻んで潰しただけのもの。
後者は辛い。
辛くて、酸っぱくて、その両方がラクの甘い匂いを消していく。
三口目で、ようやくこの酒の意味がわかる。
この酒は単体で飲むようにはできていない。
何かを食べながら、誰かと喋るためだけに存在している。
だから一人で飲むと、少しだけ、相手が要る。
19時40分にスマホが震えた。
「明日の夜、時間はありますか」
デニズだった。
三好はグラスを置いて、天井を見た。
来た、とは思わなかった。
思う前に、なぜこの時間なのかを考えた。
仕事の連絡なら昼間に来る。
会議が終わったのは正午だ。
そこから七時間以上置いて、夜になってから送ってきた。
日中ずっと迷っていた人間の送り方だった。
しかも今夜ではなく、明日の夜だという。
今夜でいいなら今夜と書く。
明日と書いたのは、話す中身を決めるのに一日要るからではないのか。
彼女は今日、書類を二秒見た。
そして最後の一分で、原産地の一枚だけを聞いた。
その二つが繋がっているなら、
明日の夜の誘いは、口説かれに来るものではない。
そう考えて、それでも行くと決める。
たいていの面白い夜は、その順番で始まる。
返信は8分置いた。
すぐ返すと軽くなる。
長く置くと重くなる。
8分はだいたい、ちょうどいい。
「空いています」
それだけ送った。
店の話はしなかった。
決めるのはこちらでいい。
部屋に戻って、メールを開いた。
東京から転送されてきた船積みの写しを、もう一度見た。
荷受人の欄。
会社名は聞いたことがない。
カラキョイの住所だ。
指が止まった。
財布からデニズの名刺を出して、机に並べた。
名刺の裏には住所が二つ刷ってある。
ゲブゼの工場と、イスタンブール事務所。
その事務所の住所と、荷受人の住所を、三好は二度読んだ。
番地が同じだった。
建物が、同じだった。
荷受人というのは、荷物を受け取る側のことだ。
この荷物は書類の上で、ゲブゼの工場を出て、トルコを出て、EUのどこかに入ることになっている。
その受け取り手が、送り出した側と同じ玄関を使っている。
読み方は二つしかない。
ただの事務所の使い回しか、荷物が書類の上でしか動いていないか。
三好は自分が後者を疑っていることに気づいて、少し嫌な気分になった。
名刺を裏返して、伏せた。
窓の外でフェリーが鳴いた。
海峡の風が、昼より少し重い。
明日から南西の風が入ると天気予報が言っていた。
ロドスというらしい。
この季節の最初の一発で海が荒れて、船が止まることもあるという。
明日の夜、あの女は何を言いに来るのか。
それを考えながら、三好はもう一杯頼もうとして、やめた。
【次話予告】
明日の夜、三好は店を決めた。
同じ銀行通りを、六軒上がったところ。
かつてこの街の金を全部数えていた建物の、いちばん上の階。
デニズはその建物の名前を聞いて、一瞬だけ黙った。

The Bank Hotel İstanbul
カラキョイの「銀行通り」に建つ、1863年築の元銀行。
三つの銀行が順番に使った建物を、そのままホテルにしている。62室、1泊170〜260ドル。
ロビーには当時の巨大な金庫が開いたまま残されていて、
その周りをトルコ製のガラスで半円に囲んでカクテルバーにしてある。
旧金庫室はワインセラー。屋上のバーからはボスポラスが見える。
ここで頼むならラク(rakı)。ブドウの蒸留酒にアニスを利かせたトルコの国民酒で、
水を足すと白く濁るので「ライオンの乳」と呼ばれる。40度を超えるので水と交互に。
つまみは茄子とヨーグルトのメゼ(ハイダリ)と、唐辛子を潰したエズメを頼めば間違いない。

マルマライ鉄道
市内とゲブゼを、ボスポラス海峡の海底トンネルで結ぶ鉄道。76.6キロを104分、15分間隔で走っている。
アジア側の工業地帯に用があるならこれが正解で、朝の高速は1時間強かかるうえに渋滞の読みが立たない。



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