三番目の風 [第2話]

更新日:9月28日

【第2話】 七枚の表札
朝から風が変わっていた。
南西から重い空気が押してくる。
ロドス、とこの国の人間は呼ぶ風だ。
青が薄い黄色に濁って、遠くのモスクの輪郭が少しぼやけている。
桟橋では、フェリーが着岸のたびに舷側を軋ませていた。
11時に、三好はホテルを出た。
行き先は決めてあった。
昨夜、名刺の裏と船積みの写しで同じだった住所だ。
歩いて七、八分。
坂を下って、海の側へ回り込んだあたり。
19世紀の商館だった。
玄関の石がすり減って、真ん中がくぼんでいる。
エレベーターはない。
四階まで上がった。
扉は一つだった。
木の扉で、上半分が曇りガラスになっている。
その横に、真鍮の表札が縦に七枚並んでいた。
六枚は緑がかって曇っていて、文字の彫りに埃が溜まっている。
何年もそこにある表札の顔だ。
一枚だけが新しかった。
上から三番目。
角が立っていて、磨いたばかりのように光を返している。
ネジの頭にも傷がない。
三好はその一枚を読んだ。
昨夜、船積みの写しで見たのと同じ名前だった。
その二つ下、上から五番目に、デニズの会社のイスタンブール事務所の名前があった。
こちらは緑がかって曇っている方だった。
扉の下に、郵便受けが横に七つ並んでいた。
表札と同じ数だ。
六つは封筒で膨れている。
取り込まれていない。
口からはみ出した一通は、雨に当たったのか紙が波打っていた。
残りの一つは、空だった。
新しい表札の会社のものだ。
郵便が一通も来ない会社、というものが、この世にはある。
三好はノックしなかった。
中から音はしない。
この階の空気は、ここ数日、誰も動かしていなかった。
会社が七つある住所に、人がいない。
登記だけを置く住所は、どこの国にでもある。
ただ、自分の荷物の受け取り手がそこに入っていて、
その表札だけが新しい、となると話は別だ。
三ヶ月越しで詰めてきた案件に、最近できた会社がいつの間にか入っている。
写真は撮らなかった。
撮れば残る。
残れば、自分が何かを知っている人間になる。
まだそこまで行くつもりはなかった。
代わりに、頭に入れた。
七枚の並び。
三番目が新しくて、五番目がデニズの会社だということ。
その社名の綴り。
空の郵便受けの位置。
写真ほど正確ではないが、こちらは消えない。
記憶には自信があった。
商談の席でメモを取らない人間は、たいていそうやって生き延びている。
階段を下りながら、東京にメールを一本打った。
この案件の荷受人の履歴を全部出してほしい、と。
文面は事務的にした。
事務的に書けるうちは、まだ事務の範囲だ。
返事は、夕方になっても来なかった。
14時を過ぎて、風が一段強くなった。
三好は店に電話を入れた。
ロドスが吹き始めた日は、この街の店に席が空く。
海が荒れればフェリーが揺れて、対岸から来る客が電話一本でやめるからだ。
一名、追加できますか。
できます、と返ってきた。
今日はキャンセルが二組出ています、とも。
店は、泊まっているホテルから坂を六軒上がったところにある。
1892年に建った、オスマン帝国銀行の本店だ。
帝国の金はここで数えられていた。
いまは文化施設で、下の階には145年分の帳簿を並べた銀行の博物館があり、
その最上階がレストランになっている。
席は出張が決まった時点で押さえてあった。
一人で行くつもりだった。
四十八時間前までに決済が済んでいないと予約が自動で消える。
そういう規則を持つ店は、来る人間を選んでいる。
19時、彼女は階段の下に立っていた。
昼間の彼女ではなかった。
髪を下ろしている。
肩に触れるくらいの長さがあって、風でときどき顔にかかった。
濃い緑のニットに、細身の黒。
ヒールは低い。
歩く場所をわかっている女の靴だった。
「この建物ですか」
彼女が上を見て、そう言った。
「下の博物館には、仕事で来たことがあります」
一瞬だけ、黙った。
それから、「上には入ったことがないです」と言った。
最上階に着くと、音が変わる。
天井が高くて、灯りが低い。
窓は縦に長く、その向こうに金角湾が黒く横たわっている。
砂を含んだ空気のせいで、対岸のモスクの照明がひとつずつ滲んで見える。
ここのシェフは、この国から消えかけている地方の料理を、
二十年以上かけて記録して皿に戻してきた人間だ。
だからアラカルトはない。
コースが一本、27,000円。
この街の物価で言えば高い。
ただ、夜にこの値段を出して後悔しない店は、そう多くない。
自分のところで起こしたサワードウのパンから始まった。
噛むと外の皮が薄く割れて、中が湿ったまま舌に残る。
次が、鰹を塩で締めたものを軽く炙ったやつだ。
ラケルダという。
脂が温まって、塩の角が取れている。
上に散らしてあるのは南東アナトリアの燻した唐辛子で、
辛いというより焦げた甘さが先に来る。
「これ、うちの祖母が作ってました」
「同じものが」
「違います。祖母のはもっと塩が強くて、食べられませんでした」
彼女が少し笑った。
昨日、エレベーターで一度だけ見た笑い方と同じだ。
眉のきつさが消える笑い方。
仔羊が来た。
肩の肉を低い温度で長く火にかけたもので、
繊維がほどけていて噛む必要がない。
骨から溶けた脂が下のピュレに落ちて、そこだけ味が濃い。
食べながら、彼女は名古屋の二年の話をした。
ほとんど工場と書類だったという。
「つまらなかったですか」
「いいえ」
即答だった。
「書類は、嘘をつかないので」
少し考えてから、続けた。
「嘘をつくのは人です。書類は、その人が書いたことを、そのまま持って歩くだけです」
三好はグラスを置いた。
「じゃあ、俺は書類で言うと、どう見えますか」
我ながら、遊びのつもりだった。
デニズは真面目に考えた。考えてから言った。
「まだ、何にも署名していない人です」
三好は笑った。
笑ったが、少し刺さった。
この女はさっきから書類の話しかしていない。
それなのに、当てられた気がする。
彼女は自分の指を見ていた。
爪が短い。
昨日、会議室で見たときと同じ手だ。
紙の端を潰さない手だった。
「最近、その書類が増えてるんです」
フォークを置いて、少し肩を落とした。
仕事の愚痴を言う顔だった。
「同じ荷物を、二回書いています」
三好は自分の呼吸が一拍遅れたのがわかった。
顔には出していないはずだった。
「二回」
「先月からです。一回目で出して、そのあともう一度、別の紙を起こします。中身は同じです」
「理由は」
「聞いていません。手間が二倍なので、やめてほしいとは言いました」
彼女は笑った。本当に、手間の話をしていた。
同じ荷物に、書類が二通ある。
一通目でどこかに着いたことにして、二通目で別のどこかへ行く。
三好の頭の中では、それが一つの絵になった。
彼女の頭の中では、ただの二度手間だった。
「三好さんは、なぜこの店を」
「下の博物館の話を、前に読んだので」
「それだけですか」
「それだけです」
嘘ではない。ただ、全部でもない。
デニズはしばらく三好を見て、それから窓のほうを向いた。
「私、この建物が好きじゃなかったんです。お金を数える場所だったので」
そう言って、また少し笑った。
「でも、上でこんな料理を出しているなら、許します」
そこで、三好は聞こうとした。
あなたの事務所と同じ扉に、表札とポストが七つずつありましたよ、と。
言葉が喉まで来て、止めた。
聞けば、この夜は終わる。
いま目の前にいるのは、祖母の塩加減の話をして笑う女で、
明日になればまた書類の人間に戻る。
その手前の時間を、自分から潰す理由はない。
そういう理屈を並べてから、
三好は自分が、聞くのが怖かっただけだと気づいた。
デザートは、揚げた生地に蜜を吸わせたものだった。
噛むと蜜が割れて、甘さが一瞬で頭まで上がる。
飲み物はコーヒーにした。
粉が沈むのを待つ時間が、この国のコーヒーにはある。
窓の外で、風がひとつ強く鳴った。
下の湾で、係留してある船の灯りが揃って傾いた。
「明日、船は止まるかもしれません」
デニズが言った。この街で育った人間が、
風の音でわかることを言っただけだった。
会計はもう済んでいる。
四十八時間前に払ってある。
彼女がそれに気づいて、一度こちらを見た。
何も言わなかった。
外に出ると、石畳が砂で少しざらついていた。
坂の下に三好のホテルが見えている。
六軒。歩いて二分もかからない。
「送ります」と言うには近すぎて、「上がりますか」と言うには早すぎた。
彼女が先に口を開いた。
「三好さん、昨日の書類のことですけど」
「原産地のことですか」
「いえ」
彼女は鞄の持ち手を持ち直した。
「あの案件、荷受人が一社増えています。部長が足しました」
「いつ?」
「先月です」
二回目の書類が始まったのと、同じ月だった。
「理由は聞いていません。私は署名しただけなので」
そこで、思い出したように付け足した。
「あ、それと。日本側には写しを送らなくていいと言われています。見ないから、と」
風が坂を上がってきて、彼女の髪を持ち上げた。
声は何も変わらなかった。
やましさがない。
隠していない。
困ってもいない。
この女は、自分がいま何を言ったのか、本当にわかっていない。
三好はその一秒で、二つのことを同時に理解した。
ひとつ。この件に彼女は噛んでいない。
もうひとつ。だからこの女が、いちばん危ない。
二通目を書いたのも、
新しい荷受人に署名したのも、
写しを止めている紙に名前を入れたのも、全部この女だ。
足したのは部長で、書いたのはデニズだ。
名前が出るとしたら、先に出るのはどちらか。
考えるまでもなかった。
「明日、時間ありますか」
気づいたら、三好の方から言っていた。
今回の出張で、自分から誘ったのは、これが初めてだった。
今夜でもよかった。
坂を下って二分の場所に部屋がある。
彼女は帰る素振りを見せていない。
時計も見ていない。
こういう夜の空気を読み違えるほど、三好は下手ではない。
ただ、今夜この女を部屋に上げたら、明日には何も言えなくなる。
言うつもりがあるのかどうかも、まだ決まっていないのに。
「明日は、船が出ないかもしれませんよ」
デニズがそう言って、少しだけ首を傾げた。
三好が今夜を取らなかったことに気づいている傾け方だった。
「だったら、ちょうどいい」
【次話予告】
南西の風が本気になって、海峡が閉じた。
船が動かない。荷物も動かない。
四十八時間、何も進まない時間ができた。
東京からの返信は、三文字だった。

Neolokal(ネオロカル)
カラキョイの銀行通り11番地、
1892年に建ったオスマン帝国銀行の本店だった建物の最上階。
設計はアレクサンドル・ヴァロリー、銀行として使われたのは1999年まで。
いまは文化施設になっていて、同じ建物の下の階に145年分の帳簿を収めた銀行の博物館がある。
窓の下は金角湾で、対岸に旧市街が広がる。
シェフはマクスト・アシュカル。
この国から消えかけている地方料理を記録して皿に戻す、という仕事を二十年以上続けている人で、
ミシュランの一つ星と、持続性を評価するグリーンスターの両方を持っている。
アラカルトはなくコース一本。
8,500リラ(約27,000円)、ワインペアリングは4,500リラ(約14,000円)、カクテルは1,100リラ(約3,500円)ほど。
名物は自家製サワードウのパン、炙ったラケルダ(鰹の塩締め)、仔羊肩肉の低温調理、そして揚げ菓子のトゥルンバ。
カクテルにラクと南東アナトリアの燻製唐辛子(イソット)を使うのもこの店らしいところ。
火曜から土曜の18時から深夜1時まで。日曜と月曜は休み。
四十八時間前までに事前決済がないと予約が自動で取り消されるので、行くと決めたら早めに押さえること。



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