サヨナラの意味 [第3話]
- GENPASS 編集 三好

- 4 日前
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更新日:2 日前

【第3話】 帰国は明日
水曜、仕事が押した。
JLRのチームとの打ち合わせが午後に入っていた。
製品戦略の説明でノートPCを繋ぎ、資料を共有した。
終わりが見えたころ、向こうのマネジメントが「夕方に別の場所で話を続けよう」と言った。
スマホを取り出してリカに「遅れます」と入力しようとしたとき、画面が真っ黒だった。
プレゼン中に使いすぎて、電池が切れていた。
ステーキハウスは長くなった。
赤ワインが入り、英国の自動車産業の話に移り、2時間が経った。
三好は時計を確認するたびに、画面の戻らないスマホを内ポケットに押し込んだ。
22時を過ぎてようやく席を立てた。
外に出ると、雨だった。
傘を開いた。
向こうが「タクシーを」と言いかけたが断った。
急ぎたかっただけだった。
リカと約束していたのは、Bruton Streetの角にある小さなビストロだった。
Mayfairに出るなら、と昨夜リカが名前を挙げていた。
「閉まる前に行こうよ」と言っていた。
閉まる前、という前提は、もう崩れていた。
雨の中を走った。
ビストロのシャッターは降りていた。
その手前に、リカがいた。
傘を差して、壁際に立っていた。
長時間立っていたからか、傘をさしていてもコートがびしょ濡れなのが見てすぐわかった。
こちらに気づいた瞬間に表情が動いた。
「帰っちゃったかと思ったよ」
と無理くり出した笑顔でリカが言った。
「こんな時間まで…」
と三好が言った。
「だって、ヨッシーからこんないい店のご飯おごってもらえるんだから、帰っちゃったらもったいないお化け出るよ」
リカが肩をすくめた。
「ヨッシーからLINE来ないから、ずっとスタンプ送り続けてたのに」
「スマホの電池が切れちゃって…」
と三好が言った。
「先に言ってよ…無理か」苦笑した。
その疲れ切った笑顔が、ふっと消えた。
「私、もう電池切れちゃったよ…」
とリカが言った。
三好の胸の中が、崩れ落ちそうになった。
声がさらに一段、落ちた。
「待つのって、あんまり得意じゃないのに。今日は待ってた」
それだけ言った。
続きは出てこなかった。
雨の音がしていた。
「行こ」と三好が言った。
ホテルの方へ歩き出した。
振り返らなかった。
リカが少し間を置いて、ついてきた。
タクシーを拾った。
「Claridge's」と三好が告げた。
リカが黙って乗り込んだ。
Mayfairの夜は雨でも静かだった。
信号の赤が路面に伸びていた。
リカはずっと窓の外を見ていた。
部屋に入ると、リカのコートが雨に濡れていた。
「シャワーを使ってください」
と三好が言った。
「うん」と言った。
一瞬だけこちらを向いた。
バスルームのドアが閉まった。
シャワーの音が始まった。
三好は廊下に出てコンシェルジュに着替えを頼んだ。
ホテルのものでよければと言われた。
部屋番号と女性用のサイズを伝えた。
その頃部屋の中では、シャワーが止んでいた。
バスルームのドアが開いた。
リカがバスローブを羽織って出てきた。
部屋に誰もいなかった。
窓の前に立った。
夜のMayfairを背景に、ガラスに自分が映っていた。
バスローブ姿のまま、しばらく窓に映った自分を見ていた。
三好がコンシェルジュとともに戻ってきたとき、リカはまだ窓の前にいた。
気づいて、ふっと笑った。
「……バスローブって、なんか恥ずかしいね」
耳が少し赤かった。
コンシェルジュが衣類をベッドに置いて、静かに出ていった。
「じゃ、着替えよー」
とリカが言った。
三好の目の前で、帯に手をかけた。
咄嗟に、視線を外した。
衣擦れの音がした。
「ヨッシー」
振り向いた。
リカはまだ着替えの途中だった。
目が合った。
リカがそれを一秒だけ確かめた。
それから笑った。
「ねぇ、セックスしようか」
三好が何かを言いかけた。
「ヨッシー、照れててかわいい」
リカが笑った。
「冗談だよー。ね、屋上とかにBarあるんじゃない?そこで飲みなおそうよ、ヨッシーのおごりで」
いつものリカだった。
Fumoir。Claridge'sのロビーを奥へ進んだ先、重いドアの向こうにある小部屋だ。
フランス語で「喫煙室」を意味するこの空間には、
今は煙草の煙こそないが、空気の密度だけが残っている。
ダークウッドの壁、革張りの椅子、暖炉の上に据えられた古い鏡。
夜中に近い時間、客は三人しかいなかった。
Negroni £24
——ジン、スウィートベルモット、カンパリが等量で、岩のような一塊の氷に注がれてくる。
グラスの縁にはオレンジピールが一枚。
「このバーは、今夜のリカに似合っている」と思った。
リカが一口飲んで「おいしい」と言った。
「ここ、ずっと来たかったんだよね」
「一人で来なかったんですか」
「一人で来る雰囲気でもないじゃん、ここ」
「Rulesは一人で来たのに」
リカが少し笑った。
「あれは別。意地になってたから」
暖炉に火が入っていた。
リカが椅子を少し引いて、炎の方へ体を向けた。
「ヨッシーってさ」
とリカが言った。
「昨日も、今日も、全然焦らないじゃん」
「焦っていましたよ」
「あ、そうなの?」
少し驚いた顔をした。
「全然わかんなかった」
リカがグラスを持ったまま、しばらくこちらを見た。
それから視線を火に戻した。
「今日、このまま帰りたくないな」と言った。
独り言のように言った。
返事を待っている声じゃなかった。
グラスが空になった。
もう一杯頼んだ。
二杯目は、ゆっくり飲んだ。
部屋に戻ったのは深夜を過ぎてからだった。
廊下でリカがカードキーを持ったまま止まった。
三好が受け取って、鍵を開けた。
照明は落とした。
リカがベッドの端に腰を下ろして、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
三好が近づくと、リカが両腕を伸ばした。
首に回してきた。すごく自然な動きだった。
「ヨッシー、もうひとりになりたくないよ。もうほかの誰かじゃいやだよ」
と言った。小さな声だった。
答えなかった。
その代わり、リカの背中に手を回した。
リカの体が傾いた。
シーツが鳴った。
雨の音が窓の外にあった。
リカの指が三好の首の後ろに触れた。
細い指だった。
そのまま耳の後ろを通って、髪の中に入ってきた。
目を閉じた。
「ヨッシー」とまた呼んだ。
今度は答えた。
リカの体は温かかった。
バスローブの布地越しに、体の熱が伝わってきた。
ほどけた帯を引いた。
リカが小さく息を吸った。
それ以外の音は、しばらくなかった。
リカが何度か、三好の名前を呼んだ。
答えるたびに、声が低くなっていった。
どこかで雨が強くなった。
リカが三好の胸に顔を押しつけて、何か言った。
声が小さすぎて、聞き取れなかった。
「なんて言いましたか」
「……なんでもない」
それきり、二人とも何も言わなかった。
時間の感覚がなくなった。
起きると、リカがいなかった。
部屋の奥に気配がして目を開けた。
窓際に人がいた。
リカがバスローブを羽織って立っていた。
コーヒーを両手で持って、窓の外を見ていた。
雨は上がっていた。
ロンドンの朝は、白い光だった。
「おはよ」と三好が言った。
リカが振り返った。
「起きた。コーヒー、勝手に淹れた」
「いつからいたんですか」
「少し前から」
リカが窓の外をもう一度見た。
「ロンドンって、朝になると急に静かになるんだよね。夜の方がうるさいじゃん、普通」
しばらく、何も言わなかった。
「ヨッシー」
「はい」
「今日、帰っちゃうんだよね…。」
リカがコーヒーをそっと枕元に置いた。
【最終話予告】
翌朝、リカは仕事へ出た。三好に残されたのは、Hyde Parkと、17時のフライトと、Notting Hillの生牡蠣だった。「好きになっちゃったじゃん。どうしてくれんの」——そして、Heathrow Terminal 5。

Fumoir(フムワール) / 基本情報
Claridge'sのロビーを奥へ進んだ先にある小部屋。
フランス語で「喫煙室」を意味するこの空間には、ダークウッドの壁、革張りの椅子、暖炉の上の古い鏡。
深夜でも静かに会話が続けられる、ふたり向けの隠れ家バー。
宿泊者でなくても利用できる。
住所:Brook St, Mayfair, London W1K 4HR(Claridge's内) 営業:毎日 17:00〜翌1:00頃 予算:£20〜35 /杯 備考:Claridge's宿泊者以外も利用可



![サヨナラの意味 [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_9c1576c6f12e40c29c9cfdb758ff85f9~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_9c1576c6f12e40c29c9cfdb758ff85f9~mv2.png)
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