それまでの猶予 [第3話]

更新日:3 日前

【第3話】 何もしていません
朝7時、ロビーに下りると、ノックはもう外に立っていた。
手にマスクを持っている。
3日目になると、受け取る動作のほうが先に出る。
「マッサージ、どうしますか」
「やめておきます」
「はい」
理由は聞かれなかった。
この街では誰も三好に何も聞かない。
工場に着くと、更衣室に安全靴が揃えて置いてあった。
27.0。昨日と同じ場所に、同じ向きで。
午前はラインの端にいた。
昨日見た12年の列が、今日は違う工程に入っている。
聞くと、3日前から順番を入れ替えて試しているという。
「誰が決めたんですか」
「私です」
ノックは、検査の数字を読み上げるときの顔で言った。
午後の会議で、値段が動いた。
向かいの男が先に口を開いた。
来期の数量を、昨日より小さい数字で言い直してきた。
数量が小さくなれば、普通は単価が上がる。
上がらなかった。
2%下がった。
三好は資料から顔を上げた。
下がる理由が、紙のどこにも書いていない。
説明したのはノックだった。
12年の列を検査の前に置き直す。
そうすると、後ろで直している分が減る。
減った分を単価から引く。
日本語で言ってから、同じことをタイ語でもう一度言った。
向かいの男は、言われている途中で一度だけ横を向いた。
初めて聞いた顔ではなかった。
何度も言われて、今日とうとう通した顔だった。
「持ち帰ります」
三好はそう言った。
2%は東京に持って帰れば通る数字で、本当は持ち帰るまでもない。
そう言ったのは、少し時間が欲しかったからだ。
営業の窓口は、自分の会社の値段を下げない。
下げるのは、下げないと困る人間だけだ。
会議のあと、廊下で聞いた。
「どうして今日だったんですか」
「来期の話だからです」
「それは昨日もそうでしたよ」
ノックは少し黙った。
「次に来るのが三好さんだとは限らないので」
——手土産を持たせたいのか。
担当は代わる。
代われば値段の話は振り出しに戻る。
2%を持って帰った人間は、次もこの案件を持たされる。
この女は、三好をこの工場の担当に残そうとしている。
そこまでは分かった。
分からないのは、そのために自分の会社の利益を削る人間がどこにいるのか、ということだった。
窓口にその権限はない。通せば社内で叩かれる。
叩かれるのを承知でやるのは、4日のうちに間に合わせたいことがある人間だけだ。
間に合わせたい相手が自分だということだけが、はっきりしていた。
5時過ぎに工場を出た。
車に乗ってから、三好は運転手ではなくノックに言った。
「今日はまっすぐ行ってください」
「……工事をしています」
「見てみたいんです」
ノックは前を向いたまま、運転手に短く何か言った。
車は北へ回らなかった。
ランプーンからチェンマイへは、古い道と新しい道がある。
昨日までは新しいほうを走っていた。
古いほうは細くて、両側に100年以上前の大きな木が並んでいる。
枝が上でつながって、トンネルの中を走っているように見えた。
川を渡って、車は旧市街の堀に出た。
堀の西側を走る道をアラック通りという。
水は乾季の終わりで少なく、底の石が見えていた。
右手に、赤い光が見えた。
店の中が全部赤い。
窓の内側まで赤い。
写真を現像する部屋の色だった。
看板はない。
ガラスの向こうに古いカメラが一つ置いてあるだけだ。
ノックは窓の外を見なかった。
見ないようにしているのではない。
見る必要がないという、見なさ方だった。
ホテルの前で、ノックは車を降りなかった。
「7時に迎えに来ます」
夜の店は、堀の中のラーチャマンカー通りにあった。
フアン・ペンという。
昼と夜で部屋が違う。
夜のほうは木造で、天井まで古いものが貼ってある。
鍋、笠、額、写真。売り物ではない。
この家が集めたのではなく、この家に残ったものだ。
ゲーン・ハンレーが来た。
豚の三枚肉を生姜とタマリンドとにんにくで煮た北の皿で、辛くない。
ビルマから入ってきた料理だから、この国の南には同じものがない。
脂が澄むまで煮てあって、匙を入れると肉が崩れる。
落花生が入っていて、それだけが最後まで形を保っていた。
アープ・プラーは、川の魚をハーブと唐辛子のペーストで巻いて、バナナの葉ごと炭に乗せたものだった。
葉を開くと湯気が立つ。
身は白く、箸で押すと水が出る。
唐辛子は効いているのに、辛さが喉まで来ない。
葉の内側で蒸されているあいだに、角が取れたのだろう。
タム・カヌンは、若いジャックフルーツを叩いて潰した皿だ。
見た目は肉で、口に入れると繊維が解ける。
肉が高かった時代の代わりものが、いまは名前のある料理として出てくる。
「明日、何時の飛行機ですか」
ノックが聞いた。
「夕方です」
「そうですか」
三好という人間について聞かれたのは、3日で二度目だった。
一度目は初日の夜の「この街は、初めてですか」だ。
会計を済ませて、外に出た。
乾季の終わりの夜は、風がない。煙の匂いがする。
「あの赤い店に行きましょう」
「……」
「名前、知ってますか」
「グレートショット」
即答だった。
階段を上がると、中は本当に全部赤かった。
昼は喫茶店で、6時から酒を出す。
もとは写真の現像室をそのまま店にしたのだという。
中二階に地元の作家の写真が掛かっていて、月ごとに入れ替わる。
ノックはOVEREXPOSURE.JPGを頼んだ。
露出オーバー、という名前の酒だ。
ランナーの白い蒸留酒に、オレガノときのこを合わせてある。
飲むと土の匂いが先に来て、そのあとに草が来る。
酒の形をした料理だった。
三好はSILHOUETTEにした。
メコンのウイスキーを胡麻と炭に漬け込んで、柚子の蜂蜜とレモンで伸ばしてある。
黒い。グラスの底が見えない。
炭の匂いがするのに、飲むと甘い。
「ここ、5年前は別の店でした」
ノックが言った。
それから、スマホを出した。
一枚だけ見せて、すぐ伏せられる持ち方だった。
女が写っている。
髪が短い。笑っていない。
ピントが合っていない。
後ろの壁の色が、いまと同じ赤だった。
右下の隅に、撮った人間の手首が入っていた。
時計があった。
三好がずっと同じものを使っている、あの時計だった。
「撮ったのは三好さんです」
三好は、画面から目を離さなかった。
離せば、何か言わなければならない。
5年前にこの街に来た記憶が、三好にはない。
出張の記録は会社にある。調べれば出る。
ただ、調べるまでもなく分かることが一つあった。
来ていたとしても、三好はそれを覚えていない。
覚えていない夜が、この男にはいくつもある。
「何が欲しいんですか」
三好はそう聞いた。
黙っているほうが負ける場面だった。
「金ですか」
「違います」
「子供ですか」
「違います」
「病気ですか」
「違います」
「会社に、何か言うつもりですか」
「違います」
聞くことがなくなった。
なくなってから、最後に一つだけ聞いた。
「——俺は、あなたに何かしましたか」
ノックはグラスを置いた。
置いてから、三好の顔を見た。
3日間で初めて、まっすぐ見た。
「何もしていません」
「……」
「何もしていません。だから来ました」
赤い部屋で、ノックは黙っていた。
泣いてはいない。笑ってもいない。
待っている顔でもない。終わった人間の顔に、いちばん近かった。
三好は、何を言えばいいか分からなかった。
分からないときに出てくる言葉は、だいたい決まっている。
「やめるのは、いつでもできますよ」
「……」
「いまじゃなくていい」
ノックが顔を上げた。
「もう一度、言ってください」
「え」
「もう一度」
三好は、同じことをもう一度言った。
ノックは目を閉じて、最後まで聞いた。
「……はい」
アキラ・マナーの車寄せで、昨日と同じようにノックが先に降りた。
昨日と違ったのは、そのあと車を帰したことだった。
「部屋、見てもいいですか」
断る理由はいくらでもあった。
買う側と売る側で、4日が終われば他人に戻る。
向こうは5年ぶんこちらを知っていて、こちらは何も知らない。
三好は、断らなかった。
金でもない。子供でもない。
何も要らないと言う女が、言葉だけを持って5年後に立っている。
そういう夜の始末のつけ方を、三好は知らなかった。
知っているやり方なら、一つだけあった。
この夜が、ただそういう夜であってほしかった。
そういう夜なら、朝になれば終わる。
部屋は3階だった。
全室がスイートで、バルコニー側に浴槽がある。
ノックは明かりをつけなかった。
近づいてきたのはノックのほうだった。
距離の詰め方に迷いがない。
初めて入った部屋での歩き方ではなかった。
シャツのボタンを上から三つ外した。
鎖骨が出た。色が白い。
この街の日差しの下で暮らしている人間の色ではない。
建屋の中にいるからだ、と三好は思った。
思ってから、いま考えることではないと思った。
背中に手が回った。
その手が止まったのは、右の肩甲骨の下だった。
指が一度だけ、そこを押さえた。
探したのではない。
確かめただけだった。
「……ありました」
声が低い。昼間より低かった。
髪をほどくと、肩より少し下まで落ちた。
匂いがした。石鹸でも香水でもない。
乾いた草に近い匂いで、この街の空気と同じ匂いだった。
抱くと、思ったより重かった。
細いのに重い。
骨が細くて、その上に筋肉がきちんと乗っている人間の重さだ。
一日立っている体だった。
胸は小さく、先の色が薄かった。
指の腹で触れると、触れたほうが先に硬くなる。
腹は平らで、肋の下がわずかに窪んでいる。
腰骨に親指が引っかかった。
脚は長くない。
腿の内側だけが、ほかのどこより柔らかかった。
声は出さなかった。
出さないのではなく、出し方を忘れた人間の黙り方だった。
息だけが速くなって、途中で一度、三好の肩を強く掴んだ。
爪が立った。
立ててから、すぐ力を抜いた。
ノックは目を閉じなかった。
暗い部屋で、ずっと三好の顔を見ていた。
見られているのが分かった。
分かったまま、三好はやめなかった。
一度、三好の手を取って、自分の左の脇腹へ持っていった。
小さく盛り上がったところがあった。
古い傷だった。
「20歳のときです」
それだけ言って、また黙った。
教えられたのは、それだけだった。
三好が知らないことを、ノックはこの夜に一つだけ渡した。
あとは全部、ノックが取りに来たものだった。
気づいたら、3時だった。
暗い中で、ノックが言った。
「三好さん」
「はい」
「さっき、言いましたよね」
「……何を」
「……いえ」
「言ってください」
間があった。
「言ったら、終わってしまうので」
三好は、この夜に自分が何を言ったかを思い出そうとした。
思い出せなかった。
窓の外は白い。
煙で、山は見えない。
朝7時、ロビーに下りると、ノックはもう外に立っていた。
手にマスクを持っている。
空は、3日間ずっと同じ白さだった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「今日は8時に出ます」
昨日と同じ声だった。
昨日と同じ、何も聞かない顔だった。
——この女は、今日で終わらせる気だ。
そう思った根拠は、何もなかった。
【次話予告】
4日目の朝、3か月ぶりに雨が降った。
煙が落ちて、空港へ向かう車の窓から山が見えた。
三好はそれを見ていた。
ノックは、見ていなかった。
Huen Phen(フアン・ペン)
112 Ratchamankha Rd, Phra Sing
旧市街の中、堀の内側にある北タイ料理の老舗。
昼と夜で部屋が変わり、夜は木造の棟で、天井まで古い道具と額が貼ってある。
看板はゲーン・ハンレー(豚の北部カレー)、アープ・プラー(川魚のハーブ蒸し焼き)、タム・カヌン(若いジャックフルーツを叩いた皿)。8時30分から16時30分と、17時から22時の二部制。
GREAT SHOT BAR CNX(グレートショット)
Arak Rd, Si Phum
堀の西側、アラック通りに面した店。写真の現像室をそのまま店にしたという造りで、室内が全部赤い。
昼は喫茶店で、18時から24時がバー。日曜休み。
酒の名前が全部写真用語になっている。
OVEREXPOSURE.JPG(ランナーの白い蒸留酒・オレガノ・きのこ)、SILHOUETTE(胡麻と炭に漬けたメコンウイスキー・柚子の蜂蜜・レモン)。中二階に地元の写真家の作品が掛かり、月替わりで入れ替わる。
スアンドーク門とアラック通り
チェンマイの旧市街は四角い堀と城壁に囲まれていて、門が5つある。
西側がスアンドーク門で、そこから堀沿いに南北へ走るのがアラック通り。
ニマンヘミンから旧市街へ入るならここがいちばん近い。北へ回る道もあるが、昼でも5分は余計にかかる。


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