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それまでの猶予  [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
5 日前
読了時間: 10分

更新日:3 日前




【第3話】 何もしていません


朝7時、ロビーに下りると、ノックはもう外に立っていた。

手にマスクを持っている。

3日目になると、受け取る動作のほうが先に出る。


「マッサージ、どうしますか」

「やめておきます」

「はい」

理由は聞かれなかった。

この街では誰も三好に何も聞かない。



工場に着くと、更衣室に安全靴が揃えて置いてあった。

27.0。昨日と同じ場所に、同じ向きで。


午前はラインの端にいた。

昨日見た12年の列が、今日は違う工程に入っている。

聞くと、3日前から順番を入れ替えて試しているという。


「誰が決めたんですか」

「私です」

ノックは、検査の数字を読み上げるときの顔で言った。



午後の会議で、値段が動いた。

向かいの男が先に口を開いた。

来期の数量を、昨日より小さい数字で言い直してきた。

数量が小さくなれば、普通は単価が上がる。

上がらなかった。

2%下がった。


三好は資料から顔を上げた。

下がる理由が、紙のどこにも書いていない。

説明したのはノックだった。


12年の列を検査の前に置き直す。

そうすると、後ろで直している分が減る。

減った分を単価から引く。


日本語で言ってから、同じことをタイ語でもう一度言った。

向かいの男は、言われている途中で一度だけ横を向いた。

初めて聞いた顔ではなかった。

何度も言われて、今日とうとう通した顔だった。


「持ち帰ります」

三好はそう言った。

2%は東京に持って帰れば通る数字で、本当は持ち帰るまでもない。

そう言ったのは、少し時間が欲しかったからだ。


営業の窓口は、自分の会社の値段を下げない。

下げるのは、下げないと困る人間だけだ。

会議のあと、廊下で聞いた。


「どうして今日だったんですか」

「来期の話だからです」

「それは昨日もそうでしたよ」

ノックは少し黙った。

「次に来るのが三好さんだとは限らないので」


——手土産を持たせたいのか。


担当は代わる。

代われば値段の話は振り出しに戻る。

2%を持って帰った人間は、次もこの案件を持たされる。

この女は、三好をこの工場の担当に残そうとしている。

そこまでは分かった。


分からないのは、そのために自分の会社の利益を削る人間がどこにいるのか、ということだった。

窓口にその権限はない。通せば社内で叩かれる。

叩かれるのを承知でやるのは、4日のうちに間に合わせたいことがある人間だけだ。

間に合わせたい相手が自分だということだけが、はっきりしていた。



5時過ぎに工場を出た。

車に乗ってから、三好は運転手ではなくノックに言った。

「今日はまっすぐ行ってください」

「……工事をしています」

「見てみたいんです」

ノックは前を向いたまま、運転手に短く何か言った。


車は北へ回らなかった。

ランプーンからチェンマイへは、古い道と新しい道がある。

昨日までは新しいほうを走っていた。

古いほうは細くて、両側に100年以上前の大きな木が並んでいる。

枝が上でつながって、トンネルの中を走っているように見えた。


川を渡って、車は旧市街の堀に出た。

堀の西側を走る道をアラック通りという。

水は乾季の終わりで少なく、底の石が見えていた。


右手に、赤い光が見えた。

店の中が全部赤い。

窓の内側まで赤い。

写真を現像する部屋の色だった。


看板はない。

ガラスの向こうに古いカメラが一つ置いてあるだけだ。

ノックは窓の外を見なかった。

見ないようにしているのではない。

見る必要がないという、見なさ方だった。

ホテルの前で、ノックは車を降りなかった。

「7時に迎えに来ます」



夜の店は、堀の中のラーチャマンカー通りにあった。

フアン・ペンという。

昼と夜で部屋が違う。

夜のほうは木造で、天井まで古いものが貼ってある。

鍋、笠、額、写真。売り物ではない。

この家が集めたのではなく、この家に残ったものだ。


ゲーン・ハンレーが来た。

豚の三枚肉を生姜とタマリンドとにんにくで煮た北の皿で、辛くない。

ビルマから入ってきた料理だから、この国の南には同じものがない。

脂が澄むまで煮てあって、匙を入れると肉が崩れる。

落花生が入っていて、それだけが最後まで形を保っていた。


アープ・プラーは、川の魚をハーブと唐辛子のペーストで巻いて、バナナの葉ごと炭に乗せたものだった。

葉を開くと湯気が立つ。

身は白く、箸で押すと水が出る。

唐辛子は効いているのに、辛さが喉まで来ない。

葉の内側で蒸されているあいだに、角が取れたのだろう。


タム・カヌンは、若いジャックフルーツを叩いて潰した皿だ。

見た目は肉で、口に入れると繊維が解ける。

肉が高かった時代の代わりものが、いまは名前のある料理として出てくる。


「明日、何時の飛行機ですか」

ノックが聞いた。

「夕方です」

「そうですか」

三好という人間について聞かれたのは、3日で二度目だった。

一度目は初日の夜の「この街は、初めてですか」だ。


会計を済ませて、外に出た。

乾季の終わりの夜は、風がない。煙の匂いがする。

「あの赤い店に行きましょう」

「……」

「名前、知ってますか」

「グレートショット」

即答だった。


階段を上がると、中は本当に全部赤かった。

昼は喫茶店で、6時から酒を出す。

もとは写真の現像室をそのまま店にしたのだという。

中二階に地元の作家の写真が掛かっていて、月ごとに入れ替わる。


ノックはOVEREXPOSURE.JPGを頼んだ。

露出オーバー、という名前の酒だ。

ランナーの白い蒸留酒に、オレガノときのこを合わせてある。

飲むと土の匂いが先に来て、そのあとに草が来る。

酒の形をした料理だった。


三好はSILHOUETTEにした。

メコンのウイスキーを胡麻と炭に漬け込んで、柚子の蜂蜜とレモンで伸ばしてある。

黒い。グラスの底が見えない。

炭の匂いがするのに、飲むと甘い。


「ここ、5年前は別の店でした」

ノックが言った。

それから、スマホを出した。

一枚だけ見せて、すぐ伏せられる持ち方だった。


女が写っている。

髪が短い。笑っていない。

ピントが合っていない。

後ろの壁の色が、いまと同じ赤だった。


右下の隅に、撮った人間の手首が入っていた。

時計があった。

三好がずっと同じものを使っている、あの時計だった。


「撮ったのは三好さんです」

三好は、画面から目を離さなかった。

離せば、何か言わなければならない。

5年前にこの街に来た記憶が、三好にはない。


出張の記録は会社にある。調べれば出る。

ただ、調べるまでもなく分かることが一つあった。

来ていたとしても、三好はそれを覚えていない。

覚えていない夜が、この男にはいくつもある。


「何が欲しいんですか」

三好はそう聞いた。

黙っているほうが負ける場面だった。

「金ですか」

「違います」

「子供ですか」

「違います」

「病気ですか」

「違います」

「会社に、何か言うつもりですか」

「違います」


聞くことがなくなった。

なくなってから、最後に一つだけ聞いた。

「——俺は、あなたに何かしましたか」


ノックはグラスを置いた。

置いてから、三好の顔を見た。

3日間で初めて、まっすぐ見た。

「何もしていません」

「……」

「何もしていません。だから来ました」


赤い部屋で、ノックは黙っていた。

泣いてはいない。笑ってもいない。

待っている顔でもない。終わった人間の顔に、いちばん近かった。


三好は、何を言えばいいか分からなかった。

分からないときに出てくる言葉は、だいたい決まっている。

「やめるのは、いつでもできますよ」

「……」

「いまじゃなくていい」

ノックが顔を上げた。


「もう一度、言ってください」

「え」

「もう一度」

三好は、同じことをもう一度言った。

ノックは目を閉じて、最後まで聞いた。

「……はい」



アキラ・マナーの車寄せで、昨日と同じようにノックが先に降りた。

昨日と違ったのは、そのあと車を帰したことだった。


「部屋、見てもいいですか」

断る理由はいくらでもあった。

買う側と売る側で、4日が終われば他人に戻る。

向こうは5年ぶんこちらを知っていて、こちらは何も知らない。


三好は、断らなかった。

金でもない。子供でもない。

何も要らないと言う女が、言葉だけを持って5年後に立っている。


そういう夜の始末のつけ方を、三好は知らなかった。

知っているやり方なら、一つだけあった。

この夜が、ただそういう夜であってほしかった。

そういう夜なら、朝になれば終わる。


部屋は3階だった。

全室がスイートで、バルコニー側に浴槽がある。

ノックは明かりをつけなかった。

近づいてきたのはノックのほうだった。


距離の詰め方に迷いがない。

初めて入った部屋での歩き方ではなかった。

シャツのボタンを上から三つ外した。

鎖骨が出た。色が白い。

この街の日差しの下で暮らしている人間の色ではない。

建屋の中にいるからだ、と三好は思った。

思ってから、いま考えることではないと思った。


背中に手が回った。

その手が止まったのは、右の肩甲骨の下だった。

指が一度だけ、そこを押さえた。

探したのではない。

確かめただけだった。


「……ありました」

声が低い。昼間より低かった。

髪をほどくと、肩より少し下まで落ちた。


匂いがした。石鹸でも香水でもない。

乾いた草に近い匂いで、この街の空気と同じ匂いだった。


抱くと、思ったより重かった。

細いのに重い。

骨が細くて、その上に筋肉がきちんと乗っている人間の重さだ。

一日立っている体だった。


胸は小さく、先の色が薄かった。

指の腹で触れると、触れたほうが先に硬くなる。

腹は平らで、肋の下がわずかに窪んでいる。

腰骨に親指が引っかかった。

脚は長くない。

腿の内側だけが、ほかのどこより柔らかかった。


声は出さなかった。

出さないのではなく、出し方を忘れた人間の黙り方だった。

息だけが速くなって、途中で一度、三好の肩を強く掴んだ。

爪が立った。

立ててから、すぐ力を抜いた。


ノックは目を閉じなかった。

暗い部屋で、ずっと三好の顔を見ていた。

見られているのが分かった。

分かったまま、三好はやめなかった。


一度、三好の手を取って、自分の左の脇腹へ持っていった。

小さく盛り上がったところがあった。

古い傷だった。

「20歳のときです」

それだけ言って、また黙った。

教えられたのは、それだけだった。


三好が知らないことを、ノックはこの夜に一つだけ渡した。

あとは全部、ノックが取りに来たものだった。



気づいたら、3時だった。

暗い中で、ノックが言った。

「三好さん」

「はい」

「さっき、言いましたよね」

「……何を」

「……いえ」

「言ってください」

間があった。

「言ったら、終わってしまうので」


三好は、この夜に自分が何を言ったかを思い出そうとした。

思い出せなかった。

窓の外は白い。

煙で、山は見えない。



朝7時、ロビーに下りると、ノックはもう外に立っていた。

手にマスクを持っている。

空は、3日間ずっと同じ白さだった。

「おはようございます」

「……おはようございます」

「今日は8時に出ます」


昨日と同じ声だった。

昨日と同じ、何も聞かない顔だった。


——この女は、今日で終わらせる気だ。

そう思った根拠は、何もなかった。



【次話予告】

4日目の朝、3か月ぶりに雨が降った。

煙が落ちて、空港へ向かう車の窓から山が見えた。

三好はそれを見ていた。

ノックは、見ていなかった。




Huen Phen(フアン・ペン)

112 Ratchamankha Rd, Phra Sing

旧市街の中、堀の内側にある北タイ料理の老舗。

昼と夜で部屋が変わり、夜は木造の棟で、天井まで古い道具と額が貼ってある。

看板はゲーン・ハンレー(豚の北部カレー)、アープ・プラー(川魚のハーブ蒸し焼き)、タム・カヌン(若いジャックフルーツを叩いた皿)。8時30分から16時30分と、17時から22時の二部制。


GREAT SHOT BAR CNX(グレートショット)

Arak Rd, Si Phum

堀の西側、アラック通りに面した店。写真の現像室をそのまま店にしたという造りで、室内が全部赤い。

昼は喫茶店で、18時から24時がバー。日曜休み。

酒の名前が全部写真用語になっている。

OVEREXPOSURE.JPG(ランナーの白い蒸留酒・オレガノ・きのこ)、SILHOUETTE(胡麻と炭に漬けたメコンウイスキー・柚子の蜂蜜・レモン)。中二階に地元の写真家の作品が掛かり、月替わりで入れ替わる。


スアンドーク門とアラック通り

チェンマイの旧市街は四角い堀と城壁に囲まれていて、門が5つある。

西側がスアンドーク門で、そこから堀沿いに南北へ走るのがアラック通り。

ニマンヘミンから旧市街へ入るならここがいちばん近い。北へ回る道もあるが、昼でも5分は余計にかかる。



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