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それまでの猶予  [第1話 / 全4話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
10月16日
読了時間: 9分

更新日:3 日前




【第1話】 初めてです


降りる30分前から、窓の外が白かった。

雲ではない。雲なら切れ目がある。

これには切れ目がなかった。

高度が落ちても地面が出てこない。

出てきたのは着陸の直前で、滑走路だけが急に現れた。


3月のチェンマイは、焼いている。

2月から火が増えて、3月と4月で山が燃える。

畑の後始末と、森の下草と、その両方でないものも燃える。

この街は山に囲まれた盆地なので、入った煙は出ていかない。



到着ロビーには、日本人が何人もいた。

その中から、彼女はまっすぐ三好のところへ来た。

名前を書いた紙は持っていなかった。


「三好さんですね。ノックです」

日本語だった。

低い声だった。


タイの人間は本名と別に短い呼び名を持っていて、

名刺にもそれが括弧で入っている。

長いタイ語のフルネームの横に、(Nok)とあった。


155センチあるかないか。48キロ前後。

顔が小さくて、肩より少し下まで髪を下ろしている。

北のほうの人間は色が白いと聞いたことがあるが、そのとおりだった。

年齢は30前後。指が長い。


到着ロビーには日本人のビジネスマンが何人もいた。

紺のジャケットに、似たような鞄。

紙を持っていない人間は普通、一度立ち止まる。

立ち止まって、顔を順に見る。


ノックは立ち止まらなかった。

写真を見てきたのだろう、と思った。

会社のサイトに三好の写真は出ていない。

事前に、こちらの会社にでも問い合わせたのかもしれない。


現地法人には日本人が一人いる。

今週はバンコクに行っていて、戻るのは三好が帰ったあとだという。

だから4日間、この女が一人で付く。

車に乗ると、ノックが窓を全部閉めた。


「今日は、悪いです」

「空気ですか」

「はい。外は白いです」

高速の右側に、何もなかった。


資料の写真では、チェンマイの街の後ろに山がある。

ドイステープという山で、頂上に寺がある。

街のどこからでも見えるらしい。


「山は、どっちですか」

「あそこです」

ノックが指をさした。

指の先には、白があるだけだった。

「毎日あります。見えないだけです」


ホテルはアキラ・マナー・チェンマイといった。

ニマンヘミンの9番目の路地にある、30室しかない宿だ。

全部スイートで、シンガポールの設計事務所が入っている。

建物は白い箱をずらして積んだような形をしていて、

いちばん小さい部屋でも60平米、浴槽がバルコニー側にある。


屋上にライズ・バーとプールがある。

プールは縁が切れていて、水が街のほうへ落ちていくように見えた。

ただし今週は、その先に何も見えない。

チェックインはもう済んでいた。


「お部屋、上の階にしました。下だと道の音が入りますので」

三好は高い階を頼んだことがない。

この会社に伝えたこともない。

前に泊まった客の希望を引き継いだのだろう、と思った。

三好は、このホテルに泊まったことがない。



昼はカオソーイだった。

カオソーイ・メーサイという店で、堀の北側のラーチャプルック通りにある。

8時から16時までしか開けない。

昼を外すと食べられない。


カオソーイは北タイのカレーの麺だ。

茹でた細い卵麺をカレーのスープに沈めて、

上に同じ麺を揚げたものを乗せる。

下は柔らかく、上は硬い。

一つの丼の中に、同じ麺が二つの状態で入っている。


スープはココナッツミルクとカレーで、濃いのに重くない。

横に小皿が3つ来る。赤い玉ねぎ、高菜の漬物、ライム。

全部入れると途中で味が変わる。

入れなければ最後まで同じ味で終わる。


肉は選べた。鶏の骨付きにした。

60バーツ、270円ほど。量は多くない。

食べ終わってから、もう一杯いけるな、と思わせる。

たぶんそれが狙いだ。


注文はノックがした。三好は何も言っていない。

出てきた丼に、パクチーが乗っていなかった。

「パクチー、抜いてもらいました」

「よく分かりましたね」

「……日本の方は、だいたい」


だいたい、ではない。

日本人の半分は平気で食べる。

三好も、出されれば食べる。

ただ、自分で選べるときは入れない。

入れない、と口に出したことは、一度もない。



工場はランプーンにあった。

市内から南へ30キロ、40分。

北部工業団地という名前の、タイで最も北にある工業団地だ。

日系の電子部品メーカーが何社も入っている。

三好の会社が買っているものも、ここで作っている。


会議室には3人出てきた。

全員タイ人で、言語は英語だった。

ノックは通訳ではない。

営業の窓口で、必要なところだけ日本語に落とす。

英語の速さと日本語の速さが同じだった。

どちらも自分の言葉として使っている人間の速さだ。


議題は来期の値段で、動かなかった。

原価の内訳は出てきた。

出てきたうえで、下がらないと言われた。

嘘はついていない。

下げられない理由がちゃんとあって、だから下がらない。


「では、今期の条件のままで一度持ち帰ります」

三好がそう言うと、向かいの男が初めて肩を下げた。

切られると思っていたのだろう。

この手の会社にとって、日本の客を一つ失うのは工場の半分を失うのと同じだ。


「やめるのは、いつでもできますよ」

三好は続けた。

「いまじゃなくていい」


ノックの手が、メモの途中で止まった。

止まってから、また動いた。



工場を出たのは5時過ぎだった。

ゲートの外の道を、同じ色のシャツが列になって歩いていく。

顔の半分がマスクで隠れている。

この街のマスクは病気のためではない。


帰りの車で、三好は一つ気づいた。

この女は、朝から一つも聞いていない。


日本から何時間でしたか。

チェンマイは暑くないですか。

タイは何度目ですか。

日本人の客を乗せた現地の人間が、最初の30分で必ず消化する質問がある。

間を持たせるためのもので、答えは誰も覚えていない。


ノックはそれを一つもやらなかった。

喋らない人間なのだろう、と最初は思った。

ただ、よく喋ってはいた。

山のことも、空気のことも、工場の人間の名前と誰が決裁を持っているかも、向こうから出してきた。

喋らなかったのは、三好個人についての質問だけだ。



夜の店はフアン・スントリーといった。

ピン川の東側、パタン通りの208番地。

木造のランナー様式で、壁がない。

床と屋根と柱だけあって、川のほうが全部開いている。

席は350あるというが、埋まっていた。


ここの持ち主は歌手だ。

北タイの言葉で歌う人で、40年近くやっている。

店の奥に小さな台があって、そこで毎晩、本人が立つ。

客は聞きながら食う。


看板は雷魚だった。

腹を開いて骨を全部抜いて、そこに豚の腸詰めを詰めて焼いてある。

切ると断面が二層になった。

外が魚で、中が肉だ。

腸詰めのハーブが強くて、辛い。

魚の淡白さは最初の一口で持っていかれる。


ナムプリック・ヌムも来た。

焼いた青唐辛子を潰したペーストで、揚げた豚の皮をつけて食べる。

これは酒を飲ませるために作られている。


ビールが2本目になったとき、ノックが店の人間に何か言った。

水が来た。頼んでいない。

三好は酒を飲むとき、2杯目のあとで必ず水を頼む。

好みではない。

翌朝のための手順で、いつからやっているかも覚えていない。


好き嫌いは聞けば分かる。

手順は、見ていないと分からない。

偶然だろう、と思った。

この国では、酒の横に水を置く店が多い。


8時に歌が始まった。

意味は分からない。タイ語ですらない。

北タイの言葉で、バンコクの人間にも全部は分からないという。


店が静かになった。

350人が同じ方向を向いて黙っている。

壁がないので、声が川のほうへ抜けていく。


三好はノックを見た。

聞いていなかった。

皿を見ていた。


歌は4曲あった。

3曲目で、隣の席の女が泣いていた。

連れの男は泣いていない。

男のほうは歌詞が分からないのかもしれない。

この街では、分かる人間と分からない人間が、同じ店で同じ歌を聞いている。


4日ある。

ただ、相手は売る側の社員だ。

買う側の人間が余計なことを始めると、あとで面倒になるのは向こうのほうだ。

三好は、何も聞かないことにした。


客の好みを調べてくる現地の担当者はいる。

日本語ができる現地採用で、本社の覚えをよくしたい人間なら、そのくらいはやる。

調べられる範囲の話だ。

そう思っておけば、全部おさまる。



会計はノックが済ませていた。

「経費で落ちますので」

三好は財布を出しかけて、やめた。

出す理由がない。


朝から何一つ、自分で決めていなかった。

部屋も、昼飯も、この店も、水も。

気づいたのはそのときだった。



店を出ると、川から風が来た。

昼より冷えていた。

夜になると、白い空は何も見えなくなる。

星が一つも出ていない。

煙があるからだという。


「三好さん」

「はい」

「この街は、初めてですか」

朝から一つも聞かなかった女が、最後に一つだけ聞いた。

「初めてです」

「——そうですか」


ノックは車のドアを開けて、乗った。

閉まる音がした。

三好は嘘をついていない。

本当に、初めてだと思っている。



【次話予告】

翌日、三好は工場のラインに入った。

安全靴を渡されたとき、彼女はサイズを聞かなかった。

その夜、暗い車の中で、彼女が一度だけ言い間違える。

聞き流せる言葉ではなかった。




akyra Manor Chiang Mai(アキラ・マナー・チェンマイ)

22/2 Nimmana Haeminda Road Soi 9, Su Thep

ニマンヘミンの路地に建つ30室だけのホテル。全室スイートで、いちばん小さい部屋でも60平米、バルコニー側に浴槽がある。設計はシンガポールの事務所。

屋上にインフィニティプールとRise Bar、1階にモダンイタリアンのAkyra Italics(11時から23時)。出張で使うには贅沢だが、ニマンの夜に歩いて出られるのはここの強み。


Khao Soi Mae Sai(カオソーイ・メーサイ)

29/1 Ratchaphruek Road, Chang Phueak

堀の北側にあるカオソーイの店。ミシュランのビブグルマン。

カレーのスープに茹でた卵麺を沈め、上に同じ麺を揚げて乗せる。下が柔らかく上が硬い。

肉は選べる。1杯60バーツ前後、270円ほどで、量は控えめ。月曜から土曜の8時から16時、日曜休み。昼を外すと食べられない。


Huan Soontaree(フアン・スントリー)

208 Pa Tan Road, Pa Tan

ピン川沿いの、壁のない木造ランナー様式の店。350席。ミシュランのビブグルマン。

持ち主は北タイを代表する歌手で、毎晩自分の店で歌う。

看板は雷魚の骨を抜いて豚の腸詰めを詰めたもの。値段は観光地価格ではない。

月曜から土曜の16時半から23時、日曜休み。歌は夜に始まるので、遅めに入ったほうがいい。


チェンマイの煙の季節

2月から火が増え、3月と4月がピーク。畑と森が燃えて、盆地に煙が溜まる。

街の後ろのドイステープが丸ごと見えなくなる。

行くなら11月から2月上旬がいい。この時期しかないなら、マスクと、空気清浄機のある宿を。5月の雨で終わる。



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