それまでの猶予 [第2話]

更新日:3 日前

【第2話】 サイズを聞かない
朝7時にロビーへ下りると、ノックはもう外に立っていた。
空は昨日と同じ白さだった。
濃くも薄くもなっていない。
この街の3月は、毎朝これが続くという。
マスクを渡された。
「今日はラインに入りますので」
工場のためではない。
外のためのものだ。
工場に着いたのは8時過ぎだった。
更衣室で作業着に着替える。
帽子の中に髪を入れて、静電気を逃がすバンドを手首に巻く。
最後に、安全靴を渡された。
履いた。ちょうどだった。
「サイズ、聞きませんでしたね」
「……あ」
「普通、聞くでしょう」
「27.0で、よかったですか」
「はい」
27.0だった。
工場の安全靴は、合わないと一日で足を壊す。
だからどこの工場でも必ず聞く。
聞かずに出してきた工場を、三好は知らない。
ノックはロッカーを閉めて、それ以上は何も言わなかった。
ラインの部品は、想像より小さかった。
米粒より小さいものを、人が指で拾って並べている。
機械を置ける大きさではないのだという。
この工場が30年ここにある理由が、その指だった。
座っているのはほとんど女で、全員がマスクをしている。
建屋の中は空気を作っているので、本当は要らない。
要らないのに外さない。
慣れてしまったのだろう。
三好は端から順に見ていった。
手元が速い席と遅い席がある。
遅いほうが不良を出すとは限らない。
速い席ほど、途中で一度止まる回数が多い。
止まるのは迷っているからで、迷う人間は見ている。
ノックが横に立って、聞かれる前に説明した。
「あの列は、入って3か月です。あちらは12年です」
「どっちが速いですか」
「3か月のほうです」
「で、どっちを信じますか」
「12年です」
即答だった。
この女は、工場を数字でなく人で見ている。
営業の窓口にしては、見ている場所がおかしい。
午後の会議でも、値段は動かなかった。
動かないものを3回確かめて、確かめたという事実だけが議事録に残る。
それでも来なければならないのがこの仕事だ。
向かいの男が、来期の数量を出してきた。
数量を増やせば単価は下がる。
下がるが、その数量が本当に出るかどうかは東京が決めることで、三好が決めることではない。
「持ち帰ります」
三好はそう言った。
言い方を少し柔らかくした。
この場で潰す必要のない話だった。
資料をめくっていると、ノックが言った。
「お疲れですか」
「いえ」
「手」
見ると、右の親指の付け根を、左の親指で押していた。
いつからやっていたのか分からない。
やっていること自体を、知らなかった。
「よくやってますよ」
ノックはそう言って、自分のメモに戻った。
よくやっている、と言われても、三好に心当たりはない。
自分の癖は自分で見つけられない。
見つけられるのは、いつだって他人だけだ。
ただ、他人が見つけるためには、見ている時間がいる。
4日では足りない。2日では、なおさらだ。
言おうとして、やめた。
言えば、この女は何か答える。
答えが出てくるのが、なぜか嫌だった。
帰りの車で、三好はスマホの地図を開いた。
店までの道が出る。
出た道と、車が走っている道が違った。
昨日もそうだった。
ホテルから川のほうへ行くとき、まっすぐ行けば10分の道を、北へ回って15分かけている。
「この道、遠くないですか」
「工事をしています」
「そうですか」
工事をしている様子は、窓の外にはなかった。
ただ、三好はこの街を知らない。
始まる前なのかもしれない。
夜の店は、ニマンヘミンの7番目の路地にあった。
ブラックイッチ・アーティザン・キッチンという。
カウンターだけで、10皿のコースを出す。
献立は決まっていない。
その日に入ったもので、その日に決める。
厨房の裏に、瓶が並んでいた。
この店は料理で出た屑を全部発酵させる。
皮も、骨も、頭も。
発酵させたものからビールと酒を作って、それをコースに合わせる。
昼に捨てられるはずだったものが、夜に戻ってくる。
3皿目は素麺だった。
日本の素麺に、地鶏の腿と、魚の浮き袋と、卵の塩漬けが乗っている。
タイでも日本でも中国でもない。
この店がどこの国の料理なのかを考えるのは、途中でやめた。
出汁は濃くない。
濃くないのに、飲み終わったあとで口の中に何かが残る。
たぶん発酵だ。
7皿目に魚が出た。
川の魚を軽く締めて、発酵させた唐辛子のペーストを少しだけ塗ってある。
辛くはない。酸でもない。
舌の脇だけが反応する種類の味で、名前のつけ方を知らない。
合わせて出てきたのは、この店で作った濁った酒だった。
米ではなく、果物の皮から起こしたものだという。
捨てなかった人間が一人いて、瓶に詰めて、1年置いた。
それだけで、こうなる。
チェンマイで一晩しか食えないなら、ここでいい。
カウンターは厨房を向いている。
だから隣に座っても、顔を見ないで話すことになる。
見られていないと、人は少し喋る。
ノックは酒を飲んだ。昨日は飲まなかった。
「車、いいんですか」
「今日は運転手を頼んでいます」
生まれはチェンライの、国境に近い村だという。
20歳でチェンマイに出てきた。
最初は旅行者向けの店で働いて、夜に日本語の学校へ通った。
学校は堀の内側にあって、授業は7時からだったらしい。
「どうして日本語を」
「最初は、歌です」
「歌」
「日本の歌を友達が聞いていました。意味が知りたくて」
それから、少し笑った。
「嘘です。給料です。日本語ができる人は、この街に少ないので」
「どっちですか」
「どっちもです。最初は歌で、途中から給料です」
笑うと、目尻が下がった。
昼間、ラインの横で検査の数字を読み上げていた女と、同じ人間に見えなかった。
「一度、帰ろうと思ったことがあります」
「村に?」
「はい」
「いつ」
「……前です」
前、としか言わなかった。
「やめたんですね」
「はい」
「どうして」
ノックは箸を置いた。
置いてから、だいぶ長く黙っていた。
「忘れました」
三好は、それ以上は聞かなかった。
聞くかわりに、いつも言うことを言った。
「やめるのは、いつでもできますよ」
「……」
「いまじゃなくていい」
言ってから、少しずれたな、と思った。
この女が言ったのは「帰ろうとした」で、「やめようとした」ではない。
ただ、酒が入っていたし、
重くなりかけた話を終わらせるにはちょうどよかった。
ノックは箸を持たなかった。
持たないまま、厨房を見ていた。火が一度上がって、また落ちた。
「……はい」
長い「はい」だった。
変だと思った。
思っただけで、三好はそれを置いた。
置いて、次の皿を食べた。
靴のサイズ。
親指の癖。
毎回まわる道。
忘れました、という答え。
一つずつなら、どれも説明がつく。
並べると、つかない。
普通ならここで引くはずだった。
相手は売る側の社員で、こちらは客だ。
そのうえ、向こうはこちらを知りすぎている。
引く理由しかない。
三好は、酒をもう1杯頼んだ。
引かなかった理由は、自分でも分かっていた。
読まれるのが、嫌ではなかったからだ。
この仕事をしていると、読むほうにばかり回る。
相手の顔を見て、言っていないことを数えて、こちらは何も出さない。
それを毎回やっている。
読まれる側に置かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
2軒目はノックが決めた。
川沿いのチャルンプラテート通りにある、バー・サンという店だ。
タイで一番いいバーを20軒選ぶと、ここが10番目に入る。
チェンマイの中では1番だという。
1階はカウンターが長く、明るく、バーテンダーがよく喋る。
2階は暗い。ジャズがかかっていて、棚に陶器の人形と空き瓶が並んでいる。
二人は2階に上がった。
テキーラにパルメザンとトマトとバジルを入れたカクテルが出てきた。
名前はピザ・ピザという。
ふざけた名前のわりに、最後まで崩れない。
チーズの塩気が先に来て、そのあとにバジルが抜ける。
これを考えた人間は、たぶん一度ふざけてから、そのあと真面目にやり直している。
2階に上がってから、ノックは喋らなくなった。
機嫌が悪いわけではない。
この店では喋らないことにしているのだろう。
何度も来ている人間の、座り方だった。
店の人間も、ノックに何も聞かなかった。
初めての客には必ず聞くことがある。
何が好きか、強いのと軽いのと、甘いのは大丈夫か。
一つも聞かれなかった。
昨日から、この街では誰も三好に何も聞かない。
店を出たのは11時過ぎだった。
車の中は暗い。
運転手は現地の人間で、英語も日本語も使わない。
一日立っていたので、背中が張っていた。
三好は肩を回した。
「マッサージ、行きますか」
ノックが言った。
「明日の朝なら、時間があります」
「どこが凝ってるか、分かります?」
軽口のつもりだった。
「右の、肩甲骨の下」
「……」
「大きなほくろのところ」
車が止まった。信号だった。
前の車のブレーキランプが、二つ赤く点いている。
三好は自分の背中のほくろを、鏡でしか見たことがない。
背中の真ん中より少し右に、爪くらいの黒がある。
シャツを着ていれば、誰にも見えない。
人に言われたことは、一度もない。
言える人間は、脱いだ三好を見た人間だけだ。
信号が青になった。
アキラ・マナーの車寄せで、ノックが先に降りた。
ドアを押さえて、三好が降りるのを待っている。
営業の人間の、正しい降り方だった。
「おやすみなさい」
とノックが言った。
「……ノックさん」
「はい?」
聞けば終わる話だった。
どこで見ましたか。一言でいい。
ノックは待っていた。
急かしもしない。
逃げもしない。
昼間、検査の数字を読み上げていたときと同じ顔だった。
待っている人間に聞けば、こちらが負ける。
三好はそれを、仕事で何百回も使ってきた。
使ってきた側だから、使われているのが分かる。
「……いえ。何でもないです」
「はい」
自動ドアをくぐったところで、後ろから声がした。
「三好さん。明日は8時に出ます」
「はい」
「左を下にして寝ると、肩が痛くなりますよ」
振り返ったときには、車はもう動いていた。
テールランプが、ニマンヘミンの路地の奥へ入っていく。
三好は、自分がどちら側を下にして寝るかを、誰かに話したことがない。
【次話予告】
三好は、もう一日待たなかった。
その夜、ノックに直接聞いた。
金ですか。子供ですか。
返ってきた答えは、どれも同じだった。
Blackitch Artisan Kitchen(ブラックイッチ・アーティザン・キッチン)
27/1 Nimmanhaemin Soi 7, Suthep
ニマンヘミンの路地にあるカウンターだけの店。
10皿のコースで、献立はその日の仕入れで変わる。タイと日本と中国が混ざっていて、どこの料理とも言いにくい。
料理で出た屑を全部発酵させ、そこからビールと酒を作ってコースに合わせる。
予約は電話かインスタグラムから。席が少ないので早めに。
Bar.San(バー・サン)
150, 1 Charoen Prathet Rd, Chang Moi
ピン川の西側、チャルンプラテート通りのバー。タイのベストバー20軒で10位、チェンマイでは1位。
1階は明るくカウンターが長く、2階は暗くてジャズがかかる。
看板はピザ・ピザ(テキーラにパルメザンとトマトとバジル)と、シオザクラ・コリンズ。
日本の肴も出るので、2軒目に強い。
ランプーンの北部工業団地
チェンマイ市内から南へ30キロ、車で40分。
タイで最も北にある工業団地で、日系の電子部品メーカーが何社も入っている。
見学には事前申請が要る。
観光で行く場所ではないが、この街が観光だけで回っていないことは、この道を一度走れば分かる。


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