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それまでの猶予  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
4 日前
読了時間: 9分



【最終話】 それまでの猶予


夜中に音がした。

雨だった。

チェンマイで雨が降るのは3か月ぶりだと、あとで聞いた。

乾季の終わりに一度だけ来るやつで、来ない年もあるという。

30分ほどで止んだ。


朝7時、ロビーに下りると、ノックはマスクを持っていなかった。

「今日は、要らないです」

外に出て、理由が分かった。


空が青い。

4日目にして初めて、空に色があった。

そして、山があった。

西の正面に、長い稜線が立っていた。

近い。思っていたよりずっと近い。

中腹に金色の点がある。

寺だという。

3日のあいだ、そこには何もなかった。

白いだけだった。


「ずっと、あったんですか」

「はい」

通りに人が出ていた。

バイクを止めて、全員が西を向いて写真を撮っている。

この街の人間が、自分の街の山を撮っていた。

3月に出るのは珍しいらしい。


煙が落ちただけだ。

雨が一度降れば、空気の中のものは地面に落ちる。

落ちれば見える。

見えなかったものは、消えていたわけではない。



工場の最終日は、紙を作る日だ。

話した内容を文章にして、双方が持ち帰る。

ここで書き落としたものは、あとで必ず揉める。

2%は、そのまま残った。


向かいの男が英語で読み上げて、ノックが日本語に直し、三好が一行ずつ確認した。

来期からの適用。数量の下限は付けない。

付けないことを、向かいの男は最後まで渋った。

渋ってから、判を押した。


判を押したあとで、向かいの男が英語で一言だけ言った。

彼女が3回言った、と言った。

3回言われて通したということは、2回は突き返したということだ。

ノックは訳さなかった。

訳さなかったので、三好も聞こえなかったことにした。


握手をして、建屋を出た。

外は暑い。

昨日までと違って、暑さの輪郭がはっきりしている。

煙がないと、暑さまで違って感じる。


「飛行機まで、時間がありますね」

ノックが言った。

「昼を食べてから行きますか」

「どこか知ってますか」

「はい」

ホテルを引き払ってから、旧市街へ入った。

バルコニーの浴槽は、4日間一度も使わなかった。

使う時間のある出張ではなかった。


店は旧市街の東、ターペー通りにあった。

キティ・パニットという。

昼しかやっていない。


もとは雑貨屋だ。

1880年代に建った家で、いまの持ち主の高祖父母の代から同じ一族が持っている。

木の柱が黒くなっていて、触ると冷たい。

床板が、歩くところだけ減っている。


売っていた棚がそのまま残っていて、いまは皿が並んでいる。

出てきたのは、牛肉とマックウェンの炒めだった。


マックウェンは北タイの山椒で、黒くて小さい。

口に入れた瞬間は何も起きない。

三口目あたりから、舌の先が痺れ始める。

痺れているのに、辛いわけではない。

辛さと痺れは別のものだと、この皿を食べると分かる。


肉は固くない。

筋の向きを変えて切ってある。

炭火の鶏とパクチーのサラダも来た。


鶏は皮まで焼いてあって、身を裂いて和えてある。

レモングラスと赤玉ねぎと、パクチーが根まで入っている。

根のほうが香りが強い。

この国では根を捨てない。

酸味は青いライムで、酢は使っていない。

だから後に残らない。


最後に、小さい椀が来た。

ナムプリック・オーンという。

トマトと挽き肉を唐辛子で煮た、北の味噌のようなものだ。

茹でた野菜を浸して食べる。甘い。

この国の北は、思っているより辛くない。


ノックはよく食べた。

4日間で、いちばんよく食べていた。

「ここ、よく来るんですか」

「いえ。高いので」

正直な答えだった。

正直な答えが出てくるのは、終わりが決まっているときだ。


「ノックさんは、チェンライに帰らないんですか」

「帰りません」

「どうして」

「ここに、仕事があるので」


2日前に「どうして」と聞いたときは、忘れました、だった。

今日は答えた。

答えになっていない答えだったが、答えようとはしていた。



空港は、堀から15分だった。

夕方なら30分かかるという。

車の中は静かだった。

運転手はいない。

ノックが運転していた。


道から、山がよく見えた。

雨のあと半日は持つらしい。夕方にはまた白くなる。

三好はそれを見ていた。

ノックは、見ていなかった。

三好は、もう一度だけ聞いた。


「5年前、俺は何て言ったんですか」

「……」

「教えてください」

ノックは前を見ていた。

信号で止まって、そこで初めて、横を向いた。


「言いません」

「どうして」

「言ったら、ただの言葉になるので」

それで終わるはずだった。

終わらなかったのは、ノックのほうが続けたからだ。


「あの夜、チェンライに帰る切符を持っていました」

「……」

「帰ったら、たぶん、もう出てこなかったと思います」

それだけ言った。


帰って何があるのかは、言わなかった。

左の脇腹の傷が20歳のときだということを、三好は思い出した。

思い出したが、聞かなかった。


「でも、やめました」

「……」

「私、自分で決めました」

信号が青になった。

「三好さんは、何もしていません」


2日前と同じ言葉だった。

2日前と、意味が違って聞こえた。

三好は、何か言おうとした。

また来ます、でもよかった。

連絡先を、でもよかった。

どちらも、言えば形になる。

形になれば、この4日はよくある話になる。


言わなかった。

言えば、また同じことをするところだった。



空港は小さい。

国際線でも、ゲートまで10分かからない。

ノックは握手をしなかった。

頭を下げて、半歩下がった。

営業の人間の、正しい別れ方だった。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」

「次はたぶん、別の方ですね」

「……そうかもしれません」

「はい」


振り返らなかった。

自動ドアの外で一度だけ立ち止まったが、それも車のキーを出すためだった。


そこで、三好は2%のことを思い出した。

「次に来るのが三好さんだとは限らないので」

あれを、担当に残すための手土産だと読んだ。


違った。

次が別の人間になる前に、三好に渡しておきたかっただけだ。

餞別だった。


ガラス越しに、車が出ていくのが見えた。

出口でいったん止まって、左に行った。

堀のほうではなく、南だった。

工場のある方角だ。

次に日本から誰かが来れば、またあの更衣室に安全靴を並べる。

27.0でないだけだ。



機内で稟議書の下書きを作った。

2%の根拠を、ノックが言ったとおりに書き写した。

検査の前に工程を一つ動かすと、後ろの手直しが減る。

減った分を単価から引ける。


単価が2%下がるというのは、買う側には悪い話ではない。

年間で出る数を掛ければ、今回の出張でかかった費用は初日で回収できている計算になる。

数量の下限を付けずに通したのが大きい、と部長が言った。

4日で取ってくる数字ではない、とも言った。

三好は、そうですね、と答えた。


誰も、誰が考えたかは聞かなかった。

聞かれなかったので、三好も言わなかった。

次にチェンマイへ行く人間は、下がったあとの値段から始めることになる。

来期の数量が出なければ、戻してくれと言われるのもその人間だ。

気の毒な話だった。



2か月後、三好はメキシコにいた。

チェンマイの稟議が通って、次がここだった。

内陸の工業団地は、ランプーンと似ていた。

同じ形の建屋が同じ間隔で並んでいて、門に出ている会社の名前まで見覚えがある。

国が違うだけで、やっていることは同じだ。


そこで、似たような部品を作っている。

建屋の空気は22度で、ラインに座っているのはほとんど女で、全員がマスクをしている。

違うのは、外が乾いていることだけだ。


会議が終わったあと、通訳をしていた若い男が残った。

来月で辞めるつもりだと言った。

理由は言わなかった。

言わなくても、顔を見れば分かる種類の疲れ方をしていた。

三好は、いつも言うことを言った。


「やめるのは、いつでもできますよ」

「……」

「いまじゃなくていい」


男は少し笑って、ありがとうございます、と言った。

三好も笑った。

笑ってから、手が止まった。


同じことを言った。

同じ順番で、同じ間で、同じ顔で言った。

考えていなかった。

考えずに出てきた。


ノックが「もう一度、言ってください」と言ったとき、三好は不思議に思わなかった。

不思議に思わなかったのは、毎回それを言っているからだ。

毎回言っているものは、言ったことにならない。


いつから言っているのかは分からない。

誰かに言われて覚えたのか、自分で作ったのかも覚えていない。

覚えていないということは、ずいぶん前から言っているということだ。


辞めると言われたら、引き止めるのが仕事だ。

ただ、本気で引き止めているわけでもない。

辞める人間は辞める。

言っておけば角が立たない。

それだけの言葉だった。


5年前のあの夜も、三好はこれを言った。

たぶん、今日とまったく同じ言い方で。

あの女が5年持っていたのは、そういうものだった。

バスの切符を捨てさせたのは、一人の男の、営業用の口癖だった。


「言ったら、ただの言葉になるので」


空港へ向かう車の中で、ノックはそう言った。

三好はあれを、思い出せない男への気遣いだと思っていた。


違った。

ノックは、分かっていたのだ。

口に出してしまえば、それがただの言葉にしかならないことを。

5年持っていたものが、どの街でも同じ顔で出てくる一言だったと、確かめてしまうのが怖かった。


聞かせなかったのは、三好にではない。

自分にだ。


会議室の窓から、乾いた山が見えた。

この国の山は、最初から見えている。隠れたり出たりしない。

三好が渡しているのは、いつも同じものだった。

答えではない。

猶予だ。


いまじゃなくていい——それだけで、人は一日先に延ばす。

延ばした一日が次の一日を呼ぶ。

気がつくと5年が経っている。


その5年に何があったかを、渡した側は知らない。

知らないまま、次の街へ行く。

救ったわけではない。


救ったのなら、三好は何かを失っているはずだった。

何も失っていない。

あの夜のことを、覚えてすらいない。


ノックが言ったとおりだ。

三好は、何もしていない。

猶予は、渡したほうが先に忘れる。



三好は会議室を出た。

来月は別の国に行く。

そこでも、たぶん同じことを言う。


やめることはできない。

やめるのは、いつでもできる。ただ、いまじゃない。


三好がどの街でも置いてくるのは、

いつだって、それまでの猶予だ。


<完>



Kiti Panit(キティ・パニット)

19 Tha Phae Rd, Chang Khlan

ターペー通りの1880年代の邸宅をそのまま使った北タイ料理店。もとは雑貨屋で、いまの持ち主の高祖父母の代から同じ一族が持っている。ミシュランガイド・タイ掲載。

牛肉とマックウェン(北タイの山椒)の炒め、炭火の鶏とパクチーのサラダ、ナムプリック・オーン(トマトと挽き肉の北の味噌)が看板。昼だけの営業で11時30分から15時、火曜休み。予約は店へ直接。


チェンマイ国際空港

旧市街の堀から車で15分、夕方でも30分。市街地にそのまま接しているので、最終日に昼を食べてから向かっても間に合う。

ターミナルは小さく、国際線でもチェックインからゲートまで10分かからない。日本からの直行便は時期によって変わるので、バンコク乗り継ぎを前提に組んだほうが安全。


ワット・プラタート・ドイステープ

街の西に立つドイステープ山の中腹、標高1,073メートルにある寺。14世紀創建と伝わる。晴れていれば市内のどこからでも、山の中腹に金色の点として見える。

参道はナーガの階段が306段。登りたくなければ横にケーブルカーがある。拝観は5時から21時、外国人は30バーツ。

煙の季節は山ごと消えるので、見えた日に行くこと。市内から車で30分ほど、チャーンプアック門から乗合のソンテウも出ている。



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