ここにはないもの [第3話]

更新日:10月13日

【第3話】 筋は通っていた
3日目の夜、宮下は来なかった。
店はグレースが決めた。
市街を抜けて上りに入ると道が細くなり、両側から木が迫ってきた。
ヘアピンを一つ曲がるたびに窓の下の明かりが遠くなる。
上がっているというより、街が沈んでいく。
標高400メートル。
市街から30分なのに、窓を開けると空気が違う。
この島で初めて涼しいと思った。
店は道の脇の、何も書いていない門から入った。
石の床で、壁が片側だけない。
テラスがそのまま夜に開いている。
眼下に街の明かりが全部あって、その向こうが海で、海の向こうにまた島の明かりがある。
昼間渡った橋が、細い光の線になっていた。
照明は低く、テーブルの上だけが明るい。
「宮下さんは、この店にはお客さんを連れてこないそうです」
グレースがメニューを開きながら言った。
「奥さんと来る店なので」
出てきたのは、豚だった。
骨付きのすね肉を煮てから揚げたクリスピー・パタ。
表面が完全に割れていて、崩すと湯気が立つ。
中は煮込んだ繊維が崩れていて、外の硬さと噛み合わない。
噛み合わないのがいいらしい。
セブに来て3日、3日とも豚だった。
文句はない。
酒はビールにした。
2杯目の途中で、彼女が口を開いた。
「弟のことを、話してもいいですか」
「どうぞ」
「弟は、ジョマールといいます」
名前を聞いたのは初めてだった。
「2年と4か月前に、日本に行きました。推薦したのは、私です」
「あなたが?」
「名前も書類も、私が全部作りました」
テラスの端で木が鳴っている。風が出ていた。
「母は反対しました。私が説得しました。3年で帰ってきます、お金も貯まります、会社がちゃんと見てくれます、と」
グレースはグラスを持たなかった。
両手を膝に置いて、まっすぐ座っている。
昼間ラインを案内していたときと同じ姿勢だった。
「8か月で、いなくなりました」
街の音はここまで上がってこない。
木と、店の奥の皿の音だけだった。
「いなくなった、というのは」
「働くところから、出ていきました。連絡はありません」
言い直さなかった。
「出ていきました」だ。
消えた、でもない。
出ていったと言う人間は、本人の意思でそうしたと思っている。
「会社は知ってるんですか」
「宮下さんは知っています」
「宮下さんだけ?」
「はい」
グレースはそこで、一度息を吸った。
「母は、知りません」
テーブルの上の火が、風で一度揺れた。
「いつからですか」
「出ていったとき、宮下さんから聞きました。その日からです」
また、即答だった。
「母は、弟が名古屋にいると思っています。会社の寮にいて、まじめに働いていると思っています」
「言わない理由は」
「——」
彼女は答えなかった。
答えを持っていない人間の黙り方だった。
言わないと決めた日は覚えていて、理由のほうが途中でなくなったのだろう。
そういう嘘を、三好も持っている。
それから3分、本当に何も言わなかった。
三好は待った。
待っていれば、人は続きを言う。
続きは来なかった。
顔を上げて「すみません、変な話をしました」と言い、
店が10時で閉まることを伝えた。
それだけだった。
何も頼まれなかった。
外に出ると、駐車場の明かりが2本しかなかった。
下の街は全部光っているのに、立っているこちら側は暗い。
グレースが配車のアプリを開いた。
車が出てこない。
何度か押して、首を振った。
「山の上は、夜はつかまらないんです」
「どのくらい」
「30分から、1時間」
三好は壁に寄りかかった。
1時間ある、と思った。
この街に来て初めて、時間が余った。
「一つ、聞いていいですか」
グレースが画面から顔を上げた。
「日本に行く前に、金を取られてませんか」
彼女は何も言わなかった。
「相場は知らない。ただ、どこの国でもだいたいそうです。間に入る人間に払って、払えないから借りて、借りたまま日本に行く。向こうが想像と違えば、逃げる」
「あなたは38人分、それを見てきた」
下で、車のクラクションが一つ鳴った。
「で、その間に入っている誰かと、あなたの工場の誰かがつながってる。宮下さんは知っているか、知らないことにしている。あなたは言えない。言えば仕事がなくなるから」
「だから客に言った。客が言えば宮下さんは動く。現地の人間の名前は出ない」
筋は通っていた。
この3日間この女が近づいてきた理由が、全部これで説明できる。
初日の歩道の「私がお願いしました」も、昨夜の名古屋の話も、全部入る。
入ってしまったことに、三好は少し嫌な気分になった。
半歩の余白だと思って見ていたものが、
ただの段取りだったことになる。
グレースは長いこと黙っていた。
それから言った。
「三好さん」
「はい」
「——それが全部当たっていたら、私はどうなりますか」
否定も肯定もせずに、自分の身の心配をする。
その順番が、この女らしかった。
「どうにもなりません。あなたは何も言っていない」
「そうですか」
「俺が勝手に気づいただけです」
彼女はうなずいた。
うなずいてから、関係のないことを言った。
「お母さんは、元気なんです」
話がつながっていなかった。
ただ、人が急に関係のないことを言うとき、
本人の頭の中ではつながっている。
「母はカルカルにいます。毎月、電話します。元気です。弟の話も、します」
「——そうですか」
「はい」
弟の話もします。
三好はそれを、頭の中でもう一度聞いた。
弟が日本に行ったのが2年4か月前。
出ていったのが、その8か月後。
そこから数えて1年8か月、母は何も知らない。
知らないまま、毎月この女と電話で弟の話をしている。
何を話しているのか。
元気にやってるよ、とでも言うのか。20回続けて。
聞けば、たぶん答えた。
聞かなかった。
買う側の人間が他人の家の中まで開けるのは、やりすぎだと思った。
車が来たのは、40分後だった。
下りの道で雨が来た。
フロントガラスが一瞬で白くなり、ワイパーが追いつかない。
運転手は速度を落とさなかった。
カーブのたびに体が傾いて、肩が触れた。
触れたまま戻らなかった。
ホテルの車寄せに着いても、まだ降っていた。
3メートル先が見えない。
「すぐ止みます。この国の雨は、すぐ止むので」
ロビーには人がいなかった。
濡れた肩から水が落ちて、床に跡がつく。
ソファに座って、二人で外を見ていた。雨の音しかしない。
「三好さん」
彼女はそう言ってから、英語に切り替えた。
"I don't want to go home yet." (まだ帰りたくない。)
日本語では言えなかったのだと思う。
考えてから言うのが日本語で、考える前に出るのが英語だ。
昨夜そう言った女だった。
三好は一度、間を置いた。
買う側と売る側のことを、そのあいだに一回だけ考えて、やめた。
「部屋で飲みますか」
「はい」
部屋は12階だった。
入ってすぐ、彼女は窓のところに立った。
雨で何も見えない。
見えないものを見ていた。
水を渡した。
受け取るとき、手首のブレスレットが回って十字架が内側に入った。
彼女はそれを直さなかった。
3日間、気づくたびに直していた女が、直さなかった。
「濡れてますね。タオル、使ってください」
タオルを受け取って、髪の先だけ押さえた。
それから、こちらを見た。
近づいたのは、彼女のほうだった。
シャツの下の体は、45キロという数字のとおりだった。
軽い。ただ、細いのと弱いのは違う。
肩に芯がある。一日立って働く人間の肩だった。
右の前腕の内側に、小さな白い傷がある。
古いものだ。三好はそこに一度、指を当てた。
彼女が息を止めた。
肌は乾いていて、少し冷たい。
濡れた服を着ていたからだ。
温まるのに時間がかかった。
温まってからのほうが匂いが出た。
石鹸と、雨と、揚げ物の油が少し。
背中は骨が近い。
背骨の一つ一つが手のひらに当たる。
手のひらで数えられる体は、痛々しくて、同時に正直だった。
急がなかった。
明日は最終日で、商談は昼前に終わる。
それ以外の予定が、この部屋には一つもない。
彼女は声を出さなかった。
出さないのではなく、出すときの作法を知らない人間の黙り方だった。
息だけが短くなる。
それが途中から追いつかなくなって、
そのとき一度だけ、聞いたことのない言葉を言った。
日本語でも英語でもなかった。
この島の言葉だ。
三好は意味を知らない。
知らないまま、それを聞いた。
この街では全員が英語を喋る。
工場でも店でもタクシーでも、言葉で困ったことが一度もなかった。
4日目にして初めて、三好は何を言われているかわからなかった。
意味は聞かなかった。
聞けば、それは訳された言葉になる。
訳された時点で、もう彼女のものではない。
気づいたら、1時を過ぎていた。
4時40分に、一度目が覚めた。
部屋は暗かった。
机のところだけ白かった。
彼女がそこに座っていた。
三好のシャツを着て、画面を見下ろして、親指を動かしている。
打っては、消していた。
打って、消して、また打つ。
一文を出すのに3回それをやる手だった。
送るまでに、ずいぶんかかった。
三好は目を閉じた。
恋人だろう、と思った。
朝の4時40分に、消しては打ち直すような文面を送る相手が、
他にいるとは思わなかった。
6時に起きると、彼女はもう服を着ていた。
白いシャツに黒いパンツ。
髪は後ろで一つにまとめてある。
工場で会った女に戻っていた。
「7時に下りてください」
「橋が死ぬんで」
「はい」
彼女は少し笑った。
それから手首の十字架が内側に入っているのに気づいて、指で表に戻した。
ドアのところで、一度止まった。
バッグから、四つ折りの紙を出した。
「これ」
「なんですか」
「弟のことです」
広げると、手書きだった。
ローマ字のフルネーム。生年月日。愛知の会社の名前。
そして、一番下に一行だけ。
左の眉の上に、小さい傷があります。
「もし、日本で何か聞いたら」
「探せるとは言えません」
「はい。わかっています」
ドアが閉まった。
傷のことまで書いてある。
ずいぶん用意のいい女だと思った。
それだけ思って、財布に入れた。
シャワーを浴びながら、昨日立てた筋をもう一度なぞった。
筋は通っていた。
昨日の夜も、今朝も、どこも破れていない。
ただ、通った筋の外側に、使い道のない事実が一つ残った。
この3日で、あの女が頼んだのはたった一つだ。
手数料でも、宮下でも、工場でもない。
紙を一枚渡して、もし何か聞いたら、と言っただけだった。
告発したい人間の頼み方ではなかった。
三好はそれを朝の頭で一度だけ考えて、持って帰ることにした。
あと半日ある。半日あれば聞ける。
そう思っていた。
【次話予告】
最終日の商談は、昼前に終わった。
終わってしまえば、あとは空港まで送られるだけだ。
助手席に、グレースはいなかった。
運転席の宮下が、ゲートを出てすぐ口を開いた。
LASA(ラサ)
Roosevelt Drive付近, Busay, Cebu City
市街から車で30分、標高400メートルのブサイにある現代フィリピン料理の店。ミシュランのビブグルマン。
壁が片側だけない石床のテラスから、市街の明かりと海と対岸のマクタン島まで全部見える。
看板はクリスピー・パタ(骨付きすね肉を煮てから揚げたもの)と、鶏皮のナチョス。
価格帯はミシュラン表記で₱₱、高くはない。毎日11時から22時。
ブサイへの道(トランスセントラル・ハイウェイ)
市街から配車アプリで30〜45分、250〜400ペソ。
問題は帰りで、夜の山の上はアプリに車が出てこない。下りてくる車を拾うか、30分から1時間待つことになる。
さらに上のトップス展望台(入場100ペソ・24時間)までは、ITパークからの往復シャトルが深夜3時まで200ペソで出ている。山で飲むなら、帰りの足を先に決めておくこと。


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