ここにはないもの [第1話 / 全4話]

更新日:10月13日

【第1話】 質問が一つ多い
マクタン・セブ国際空港は、海のすぐ横にある。
着陸の直前まで窓の下は水で、
車輪が接地した瞬間にようやく島が島になる。
機体を出たところで、空気が変わった。
温度ではなく、重さだった。
日本の夏にもある暑さだが、こちらはそれが一日中そこにいる。
出口に日本人が立っていた。
ポロシャツの袖から出ている腕が、肘から先だけ色が違う。
この国で何年も車を運転している人間の腕だった。
「三好さんですよね。宮下です」
握手が強かった。
三好の会社が買っている部品を、この島の工場で作っている。
宮下はその工場の長だ。
日本人の駐在はこの男一人で、あとは数百人全員がフィリピン人。
だから客が来れば工場長が自分で空港まで出てくるし、だから腕が焼けている。
「お疲れさまです。暑いでしょう」
「思ったより」
「いまが一番マシなんですよ、これで」
セブで12年。
奥さんはこちらの人だと、歩きながら自分から言った。
聞いてもいないことを先に出す種類の男だった。
悪くはなかった。
工場は空港から15分だった。
三好は買う側で、宮下は売る側だ。
4日いて、工程を見て、来期の値段の話をして帰る。
それだけの出張だった。
道の両側は、空港を出た瞬間から工場になった。
マクタン島には輸出加工区がある。
150ヘクタールの塀の中に200社以上が入っていて、
縫製も電子も同じ敷地にいる。
ゲートで車を降り、紙の名札を首にかけた。
外は気温34度で、建屋に入った瞬間に22度になる。
中で働く人間は、そのために一日に2回、体を切り替えている。
会議室には、もう一人いた。
女だった。
160センチあるかないか。
体重は45前後といったところか。
細いが、痩せているという感じではない。
顔が小さくて、頬骨が高い。
髪は長く、後ろで一つにまとめている。
目が大きいわりに、瞬きが少ない。
年齢は31か32。
顔だけ見ればもっと下に見えるが、
立ち方に20代のところが一つもなかった。
左の手首に細い金のブレスレットがあった。
小さな十字架がついていて、腕を動かすたびに下側へ回ってしまう。
彼女はそれに気づくたび、指で表に戻していた。
名刺には MA. GRACE S. ABELLANA とあった。
Ma. はマリアの略だと、あとで本人が言った。
この国の女はたいてい頭にマリアが付いていて、誰もそこを呼ばない。
紙の上にだけある名前だ。
「総務のグレースです」
宮下が紹介した。
「日本語いけますんで、何でもこいつに言ってください」
日本語は書類で覚えた日本語だった。
「そのように記載されております」
と会話で言う。
耳から入れた人間はこういう言い方をしない。
午後は数字の確認で終わった。
途中、宮下が不良率を口頭で出して、桁を一つ間違えた。
「0.3ではなく、0.03です」
グレースが即座に言った。
宮下は笑って「でしょ、こいつがいないと回らないんですよ」と言った。
言われたほうは笑わなかった。
間違いがあったから直した、それだけという顔をしていた。
ラインは短く見た。
座っているのは全員女で、全員が同じ速さで同じ動きをしていた。
顔は上げない。
ラインで見るべきなのは製品ではなく人の手だと、誰かに教わったことがある。
手は嘘をつかない。
この工場の手は、揃っていた。
「三好さん、夜は空いてますよね」
帰り支度をしながら、宮下が勝手に決めた。
「グレースも連れていきます。日本から人が来たときは、いつもこの3人なんで」
彼女は書類を抱えたまま、小さく頭を下げた。断るとも行きますとも言わなかった。
そういう決まりなのだろう、と三好は思った。
夕方、ゲートの前は人だけになった。
同じ色のシャツが大きな川になってゆっくり動いている。
その横を車で抜けて、橋へ向かった。
グレースは後ろの席で、膝の上にバッグを置いて座っていた。
マクタン島と本島をつなぐ橋は2本ある。
宮下は新しいほうを選んだ。
橋の上で、海の色が変わった。
浅いところが緑で、深いところが青い。
その境目が、定規で引いたみたいにはっきりしている。
「きれいでしょう」
宮下が言った。
「12年住んでも、ここだけは毎回見ます」
ホテルは本島側、アヤラの向かいだった。
部屋に荷物を置いただけで、
15分後にはロビーに下りた。
「三好さん、初日はこれ食べてもらわないと帰れないんで」
店はアカシアという通りにあった。
木と編んだ素材でできた、明るい店だった。
家族連れが多く、どのテーブルも人数より皿が多い。
「セブといえば豚です。他に言うことないです」
宮下はそう言って、量だけ頼んだ。
出てきたのは、皮ごと焼いた豚だった。
カルカルという南の町のやり方で、
腹の中にレモングラスと葱と大量のにんにくを詰めて、
炭の上でゆっくり回す。
表面に塗るのは油ではなく、煮詰めた砂糖水だという。
皮が割れる音で来たことがわかった。
フォークの先を当てると、そこから放射状に割れる。
ガラスを薄く焼いたような割れ方をする。
下の脂は透き通っていて、肉まで届く前に口の中で消えた。
中は味がついている。
マニラのレチョンにはレバーのソースがかかるが、セブはかけない。
酢の皿は一応置いてあるのに、肉に回しかける人間は一人もいなかった。
ソースが要るかどうかで、その豚がどこの豚かわかる。
1キロ1,499ペソ、4,000円弱。
4分の1キロなら545ペソで、男1人には多いくらいだった。
飯は椰子の葉を編んだ袋に入って出てきた。
手のひらに乗る菱形で、プソという。
市場で片手で買って片手で食べるためのものだと、グレースが言った。
説明が正確だった。
この女は、知っていることを短く言う。
マクタンのリゾートで3,000円のポークリブを食べて帰る出張者と、
初日の夜にわざわざ橋を渡らされた出張者とでは、同じ4日でも持って帰るものが違う。
これは断言できる。
この国では誰もが英語を喋る。
工場でもホテルでもこの店でも、言葉で困る場面が一度もない。
ただ、通じるのと、言うのとは別の話だ。
それはこの時点ではまだ、ただの感想だった。
皿が半分になったころ、宮下が自分の工場の話を始めた。
放っておくと必ずこれになる。
「うち、日本にも何人も行ってるんですよ、実習で。手続きは全部グレースがやってます」
「何人くらい」
「何人だっけ」
「38人です」
即答だった。
考えてから出した数字ではない。
「覚えてるんですか」
「書いてありますから」
そう言って、少し笑った。
笑ったが、手元の紙は見ていなかった。
それから彼女は、三好のほうを向いた。
「三好さんは、日本で、実習生の人に会ったことがありますか」
「工場に行けばいます。話したことは、あまりない」
「そうですか」
そこで終わるはずだった。
乾杯があって、来期の話が少し出て、デザートが来る。
そういう夜だった。
グレースが、もう一度口を開いた。
「会社は、途中でいなくなった人のことは、どうしますか」
宮下が顔を上げた。
「グレース」
名前を呼んだだけだった。
怒ってもいないし、声も大きくない。
ただ、間が1拍だけ早かった。
質問の意味を考えてから止めたのではなく、
質問が出る前から止める準備ができていたような早さだった。
それから宮下は三好のほうを向いて、笑った。
「すみません、この子、日本の話になると止まらないんで。三好さん、明日は何時から行きます?」
「8時で」
「じゃあ7時にロビー下りてください。橋が死にます」
話はそれで流れた。
ウベのアイスが来た。
宮下はそれを子供みたいな速さで食べた。
三好が引っかかったのは、質問のほうではなかった。
宮下が答えなかったことだ。
答えられない質問ではない。
「会社は追いません」でも「監理団体の仕事です」でも、何でもよかった。
工場長が答えて困る話ではない。
それを、名前を呼んで止めた。
店を出ると、雨が降ったらしく路面が光っていた。
三輪のバイクが客を乗せて、水を撥ねながら前を通り過ぎた。
宮下が車を取りに行った。
歩道に二人が残った。
「三好さん」
「はい」
「明日、ラインは私が案内します」
「宮下さんじゃなくて?」
「私がお願いしました」
それだけ言って、彼女は半歩分だけ離れたところに立った。
目は合わせなかった。
手首のブレスレットが回っていて、十字架が内側に入っていた。
彼女はそれを指で表に戻した。
三好は、こういう距離の詰め方をする女を何人か知っている。
自分から言う。
言ったあとで離れる。
近づいてきたくせに、半歩だけ余白を残して立つ。
あれは、こちらに動いてほしいときの立ち方だ。
ただ、相手は売る側の社員だった。
こっちは買う側で、向こうは値段を決められる立場にいない。
その上下がある場所でこの手のことに手を出すのは、よほど馬鹿か、よほど若いかのどちらかだ。
三好はどちらでもない。
女との距離について、
三好には昔から変えていない持論が一つある。
追えば逃げる。
止まれば寄ってくる。
ただし、それは追う気がある相手にだけ使うものだ。
追わないと決めたなら、ただ止まっていればいい。
4日経てば帰る。
それで何も起きずに終わる。
車のライトが路地の奥で点いた。
そのときの三好は、
彼女が何を欲しがっているかを、一度も疑わなかった。
【次話予告】
翌日、三好はラインの端から端まで歩いた。
歩きながら、彼女は質問を続けた。部品の話は一つも出なかった。
全部、日本で働く人間の話だった。
夜の店を決めたのは、今度は彼女だった。
Quest Hotel & Conference Center Cebu(クエスト・ホテル)
Archbishop Reyes Avenue, Cebu City
アヤラセンター・セブの向かいに建つ427室の実務系ホテル。
5つ星ではないが、出張で必要なものは全部ある。
会議室、ジム、プール、そして何より市内のどこへ行くにも早い。
1階のPusô Bistro & Barは朝食が強い。
マクタン島の工業団地へ通うなら、朝は橋が詰まるので7時前に出ること。
House of Lechon(ハウス・オブ・レチョン)
Acacia Street, Cebu City
アヤラのビジネスパーク脇にある、セブの豚を食べるならまずここという店。
木と編み素材の明るい内装で、一人でも家族連れでも浮かない。
看板はカルカル式のレチョン。
腹にレモングラスとにんにくを詰めて炭で回すので、中まで味がついていて酢もソースもいらない。
1キロ1,499ペソ、4分の1キロ545ペソ。椰子の葉を編んだプソの飯を一緒に。毎日10時から22時。
マルセロ・フェルナン橋
マクタン島と本島をつなぐ2本の橋のうち、新しいほうが1999年開通の全長1,237メートルの斜張橋。
古いほうのセルジオ・オスメニャ橋は1973年開通で、こちらは朝夕まったく動かない。
2022年にはコルドバ側から有料のCCLEXも開通している。
空港から市内は空いていれば30分、朝夕は1時間を超える。


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