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ここにはないもの  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
10月12日
読了時間: 9分



【最終話】 ここにはないもの


最終日の朝は、6時に目が覚めた。

雨は上がっていた。

降ったあとのこの島は、緑が一段深くなる。

シーツはもう直してあった。

直してから出ていったのだと思う。


1階で朝食をとった。

にんにくで炒めた米に、目玉焼きと干した魚。

甘いソーセージが一本ついてくる。

朝から甘い。

隣の家族が当たり前の顔でそれを食べていた。

三好はコーヒーだけおかわりした。



7時に宮下が来た。

橋は、4日間で一度も空いていなかった。

商談は40分で終わった。

宮下の数字は昨日から1ポイントも動いていない。

動かないことは双方わかっていた。

それでも並べるのが仕事だ。


「持ち帰って、書きます」

「お願いします」

「数字が届いてないのは事実です。ただ、数字以外のところは見てますんで」

宮下が一度、瞬きをした。

「……ありがとうございます」



正午前、工場の玄関でグレースと別れた。

白いシャツに黒いパンツ。

手首の十字架は表を向いていた。

「お世話になりました」

「こちらこそ」

それで終わるはずだった。


「三好さん」

「はい」

「昨日の紙、捨ててもらって大丈夫です」

三好は上着の内側を一度押さえた。

「持ってます」

「——はい」

彼女は頭を下げた。

下げてから、もう一度何か言いかけて、やめた。やめたのが見えた。

自動ドアが閉まった。

ガラスの向こうで、彼女はもう別の人間と喋っていた。



空港までは15分だった。

4日前に通った道を、反対向きに走る。

スーツケースは朝から後ろに積んである。

助手席は空いていた。


団地のゲートを出てすぐ、三好は言った。

「宮下さん。送り出しの手数料、どうなってますか」

宮下はミラーを一度見た。

「それ、グレースが言いました?」

「言ってません。俺が勝手に考えました」

「……ああ」

少しのあいだ、宮下は黙った。

それから、怒るでも笑うでもない声で言った。


「うちはそこ、綺麗です。何年も見てるんで、それだけは言えます」

「そうですか」

「あの子が、何か言ったんですね」

「弟さんの話は聞きました」

宮下はウインカーを出して、トラックを一台抜いた。

抜いてから喋り出した。


「連絡が来たのは1年8か月前です。監理団体から1本と、受け入れ先から1本。寮から荷物を持って出た、と」

「それで」

「グレースを呼びました。姉ですから、先に言わないわけにいかない」

「お母さんには」

「言ってないです」

前を向いたまま言った。


「あの子が、言わないでほしいと」

三好は窓の外を見ていた。

工業団地の塀が切れて、海が一瞬だけ見えた。

「それで、1年8か月です」

「何がですか」

「ジョマールから家に行く連絡。あれ、全部グレースです」

三好は何も言わなかった。


「月に1回、弟の名前でメッセージが行きます。送金も。月に8,000ペソくらいかな。グレースの給料からです」

2万円と少し。

この島の総務が、毎月自分の財布から出す額ではない。

「母親は、息子が名古屋で元気にやってると思ってます。本気で思ってます。この前の電話で、太ったんじゃないかって言ってたそうです」

右から車が1台入ってきた。宮下は何も言わずに速度を落とした。


「三好さん。あの子、よく喋りましたか」

「いえ」

「でしょうね。私にも喋りません。この話、1年8か月で3回しかしてない」

三好は後部座席で、昨日の朝のことを考えていた。


4時40分。

部屋の机で、彼女が打っては消していた。

一文を出すのに3回それをやっていた。

三好はそれを、恋人への返信だと思った。


恋人ではない。

あの朝あの女が書いていたのは、カルカルの母に宛てた、弟からの連絡だ。

弟になりすまして、弟の言うことを考えていた。

だから3回打ち直す。

自分の言葉なら、そんなに迷わない。


そして、なぜ4時40分なのか。

日本は、ここより1時間早い。

セブの4時40分は、日本の5時40分だ。

名古屋の寮で、朝のシフトに出る前の男が起きている時刻だった。


あの女は、弟が起きているはずの時刻に自分の朝を合わせて、弟の文章を書いていた。

いない人間の生活時間に、1年8か月、毎月、自分を合わせている。

そこまで考えて、三好はもう一つ分かった。


3日間あれだけ制度の話を聞きながら、

あの女は一度も「どこにいるか」を聞かなかった。

場所を知りたかったのではない。

知りたかったのは一つだけだ。


——こういうことをした人間は、どうなるのか。


あれは弟の話ではなかった。

山の上で「それが全部当たっていたら、私はどうなりますか」と聞いた女は、

三好の推理の答え合わせをしていたのではない。

自分の答えを聞いていた。



空港は、木でできていた。

第2ターミナルは天井が18メートルの木のアーチで、それが波のように連続している。

マクタンの海を模したのだという。

出発階に籐の椅子が並んでいた。

空港に籐の椅子を置く国は、そんなに多くない。


「三好さん」

宮下が手を出した。握手は初日と同じ固さだった。

「次は数字、作ります」

「待ってます」

それから言い足した。

「あの子のことは、聞かなかったことにしてください」

「はい」

「すみません。……たぶん私も、誰かに言いたかったんだと思います」

この男も、1年8か月黙っていた。



日本に帰って、報告書を書いた。

結論は「継続」にした。値段は届いていない。

ただ工程は見た。手順にない動きを全員がやっている工場だった。

書けば検査が増えて原価が上がるから、誰も書かない。

書かないまま不良が止まっている。

そういうことを書く欄は報告書にない。

三好は欄のないことを3行だけ余白に足して、出した。

出したあと、財布から紙を出した。


JOMAR S. ABELLANA

生年月日

愛知の会社の名前

左の眉の上に、小さい傷があります


調べる義理はなかった。頼まれてもいない。

ただ、傷のことまで書いてある紙を、捨てる気にはならなかった。

受け入れ先はすぐに分かった。

同じ業界だ。電話は3本で届いた。


返ってきた答えは短い。

2年4か月前に来て、8か月で寮を出た。

届は出した。

それ以降は知らない。

記録はある、と言われた。

いなくなった人間について会社が持っているのは、

いなくなったという記録だけだった。


愛知には、この国の人間が多い。

日曜の朝、カトリックの教会で英語とタガログ語のミサがある。

終わると信者が外で食べ物を売る。

そこが掲示板みたいになっていると、調べているうちに知った。


3回目の日曜に、心当たりがあるという男が出てきた。

左の眉の上の傷のことを言うと、ああ、と言った。

違う名前で呼ばれていた。

この国の人間は、紙の上の名前と呼ばれる名前が別のことがある。

あの名刺と同じだ。


会ったのは解体のヤードだった。

三好が部品の話で出入りしている業界の、一番下の層にある場所だ。

潰した車が段に積んである。

鉄とオイルの匂いがした。


ジョマールは背が高かった。

姉の言ったとおりだった。

作業ズボンの膝が破れていて、手が黒い。

眉の上に、白い線が一本ある。

三好が姉の名前を出すと、

ジョマールは両手を腰に当てて、そのまま黙った。


「お姉さんは、元気です」

「……そうですか」

「カルカルのお母さんも」

ジョマールは何も言わなかった。

それから、聞いた。


「母は、怒っていますか」

三好は答えられなかった。

怒っていない。知らないからだ。

言わずに帰る道はあった。

言えばこの男が動く。

動けば、カルカルの家で何かが終わる。


ただ、終わらせない権利も、三好にはなかった。

「怒ってません」

三好はそう言った。

「知らないからです」

ジョマールが顔を上げた。


「お母さんは、あなたが名古屋の寮にいて、まじめに働いていると思ってます。毎月あなたから連絡が来て、毎月あなたから金が届いてるからです」

「……俺、送ってません」

「知ってます」

鉄の山の向こうで、プレスが一度鳴った。


「お姉さんです。1年8か月、あなたの名前で書いて、あなたの名前で送ってる。自分の給料から、月に8,000ペソ」

ジョマールは何も言わなかった。

手を一度、作業ズボンで拭いた。黒いものは落ちなかった。


「帰ってこいとは言いません。帰れないのは本当なんでしょう」

「……はい」

「ただ、生きてることだけは、どこかで伝えたほうがいい」

「……」

「あなたの代わりに書いてる人間が、いつまで書けるかは俺にもわからないので」

ジョマールは長いこと黙っていた。

それから、日本語をやめて英語になった。


"Please don't tell her you found me." (私を見つけたことを、彼女には言わないでください。)

「どうして」

「自分で言います」

「いつ」

「——わかりません」

わかりません、だった。

言わない、ではない。

女がいる、と言った。

春に子供が生まれる、とも言った。

「言いません」

三好はそう言った。

三好にできたのは、そこまでだった。


片方に渡して、もう片方には渡さない。

あとはこの男が決める。

決めるところを、三好は見られない。



帰りに、国道沿いのフィリピン食材店に入った。

缶詰とインスタント麺の棚の向こうに、カウンターが4席だけある。

奥でおばさんが一人で揚げ物をしていた。


頼んだのはクリスピー・パタだった。

山の上で食べたのと同じものが出てきて、同じように表面が割れた。

同じではない。油が新しくない。

衣の下の肉が乾いている。

それでも、割れる音だけは同じだった。


壁に紙が何枚も貼ってある。

部屋の貸し出し、仕事の紹介、日本語教室の案内。

全部手書きで、全部この国の言葉だった。

セブでは、工場でも店でもタクシーでも言葉で困ったことが一度もなかった。

いま三好は、一行も読めない。



その夜、グレースにメッセージを打った。

弟さんに会いました、と打った。

消した。約束したからだ。

元気でした、と打った。消した。

これもほとんど同じことだ。

名古屋ではありません、と打って、それも消した。

打っては消して、打って消して、また打った。

一文を出すのに、3回同じことをした。


4時40分に机に座っていた女の手が、そのときやっと分かった。

分かったところで、何も変わらなかった。

送ったのは、一行だけだった。


また連絡します。


連絡はしなかった。

守るというのは、たいてい黙るということだ。

黙れば、守っている相手には何も届かない。

届かないから、守れる。


カルカルの母が毎月受け取っているのは、

名古屋にいる息子からの連絡だ。

息子は名古屋にいない。

グレースが毎月送っているのは、弟の言葉だ。

弟は一行も書いていない。


ジョマールが背負っているのは、自分を恥じている母親だ。

母親は恥じていない。


そして三好がグレースに渡さなかったものは、

渡さないまま、どこにもない。

あの男が電話をかけたかどうかも、三好は知らない。


すべては、ここにはないものだ。


<完>



マクタン・セブ国際空港 第2ターミナル

2018年開業の国際線ターミナル。高さ18メートルの木のアーチが波のように連なる天井で、マクタンの海を模したものだという。設計はArupとIntegrated Design Associates。

出発階には籐の椅子が並び、空港というより島の集会所に近い。

「世界初のリゾート空港ターミナル」を自称しているが、座ってみると強ち嘘でもない。

市内からは空いて30分、朝夕は1時間超。


カルカル(Carcar)

セブ市から南へ40キロ、サウス・バスターミナルからバスで1〜1.5時間。

セブのレチョンの本家筋にあたる町で、ロータリー周辺に豚の店が並ぶ。

特徴は2つ。渡す直前にバーナーで皮を炙り直すことと、腹から出た汁を刻んだ肉にかけ回すこと。

1キロ400ペソ、1,000円ほど。昼過ぎにはいい部位がなくなるので、行くなら午前中に。




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