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ここにはないもの  [第2話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
10月10日
読了時間: 9分

更新日:10月13日




【第2話】 愛知にいます


7時にロビーへ下りたら、宮下はもう外にいた。

橋は、言われたとおり死んでいた。

乗った瞬間から動かない。

両側を原付がすり抜けていく。

後ろの人間が、膝に弁当らしい袋を乗せていた。


「これ、毎朝ですか」

「毎朝です」

宮下は顔色を変えずに言った。

「3本目の橋ができたんですけどね。有料だし、降りる場所が違うんで」



工場の門に、グレースが立っていた。

白いシャツに黒いパンツ。

昨日と同じ格好に見えて、シャツだけ違った。


その日は朝からラインの端に入った。

帽子に髪を全部入れて、靴の裏を粘着マットに2回つける。

入った瞬間に冷える。

外の湿気が肌から引いていく。


案内はグレースがした。

工場を案内する人間は、たいてい自分が得意な工程から喋る。

この女は最初から最後まで流れの順に喋って、一度も戻らなかった。


途中で足を止めた。

一つの席で、規定にない動きが入っている。

部品を置く前に、指で縁を一度なぞる。


「これ、手順にありますか」

「ありません」

グレースは即座に言った。

「3か月前からです。バリが出る型があって、その日だけ、みんな勝手に確認しています。手順に入れると検査が1工程増えるので、入れていません」

「入れたほうがいいと思いますけど」

「私もそう思います」

それで終わりだった。言い訳も取り繕いもない。

悪くない工場だった。


手順に書けば検査が増える。

増えれば原価が上がる。

だから書かない。

書かないまま、誰かが毎日一回だけ余計に指を動かして、不良を止めている。

そういう現場はたいてい強い。

記録には何も残らないが。



休憩は10時半からの15分。

建屋の裏に屋根だけの休憩所がある。

プラスチックの椅子と、壁の小さな窓。

そこで袋入りのコーヒーを売っていた。

粉と砂糖とミルクが混ざっていて、湯を注ぐと全部同じ味になる。


グレースは紙コップを両手で持っていた。

気温34度の屋外で、熱いものを両手で持つ。

この国の人間はそうする。


「三好さん」

「はい」

「日本の会社は、実習生が途中でいなくなったとき、どこに連絡しますか」

昨日の夜の続きで、昨日より具体的だった。


「監理団体でしょう。それと入管」

「監理団体から、こっちの会社にも来ますか」

「来ると思います。送り出した側だから」

「記録は、何年残りますか」

「知らない。調べたことがない」

「そうですか」

彼女は紙コップを持ち替えた。


「一度いなくなった人は、もう日本に行けませんか」

「たぶん無理でしょう」

「たぶん、ですか」

「俺は人事じゃないんで」

質問の数が多かった。


ただ、どれも制度の話だ。

辞めたらどうなるか。

記録はどうなるか。

もう一度行けるか。

38人を送り出している総務の人間が知りたがっても、おかしくはない。


「詳しいですね。日本のことを、ずいぶん調べている」

「弟がいます」

「日本に?」

「愛知です」

「何年目ですか」

「2年と4か月です」

また、即答だった。


「会ってないんですよね」

「はい」

「寂しいでしょう」

「元気です」

答えになっていなかった。

ただ、人は家族のことを聞かれると、少しずれた答えを返す。

三好の母親も同じことをする。


「どんな弟ですか」

「まじめです。背が高くて、よく食べます」

すらすら出てきた。


何度も言ったことのある説明の出方だった。

姉とはそういうものだろうと三好は思った。

この女は弟のことで何か抱えている。

そうでなければ、客の前で制度の話を三つも並べない。

相談したいが、立場がある。

買う側の人間に個人の頼みごとをするのは、

この女の線の引き方に引っかかるのだろう。


だったら、こちらから聞いてやるのが筋だ。

そう思って、三好は聞かなかった。

答えさせたら、彼女は自分で引いた線を一本またぐことになる。

三好は、自分が礼儀正しいことをしていると思っていた。



午後は値段の話で、動かなかった。

宮下の原価表は為替の前提が古い。

それを言うと「持ち帰ります」と返ってきた。

この業界で持ち帰りますは、いまは動かせないと同じ意味だ。

悪い男ではない。

それと数字が出ることは、別の話だ。


「今日はグレースに選ばせます」

帰りの車で宮下が言った。

「私が選ぶと毎回豚になるんで」

結果から言うと、今日も豚だった。


店はビジネスパークのビルの1階にあった。

灰色の煉瓦と硬い木。

設計は上海の建築家で、スペイン植民地時代の様式を現代に置き直したのだという。

実際に入ると、理屈より先に天井の高さが目につく。

カウンターの向こうで厨房が全部見えていて、火が動いている。


作ったのはイギリス人だった。

ロンドンで星を取った男で、修業先はスペインの、実験みたいな料理を出す店だったという。

セブに店を出した理由は単純で、奥さんがセブの人だからだ。


最初に来たのは、エビのキニラウだった。

キニラウはこの国の酢締めで、セビーチェに近い。

カラマンシーで締めたエビに、青いパパイヤの漬けたのとココナッツが乗る。

酸が先に立って、最後にココナッツの脂が口の中を丸くする。275ペソ、700円ほど。


豚バラは皮が立っていた。

昨日の炭火とは別の作り方で、脂を抜いてから表面だけを強い火で起こしてある。

噛むと皮が音を立てずに割れた。

音を立てないほうが、たぶん難しい。


昨日は同じ島の豚を、1キロ4,000円で手で食べた。

今夜は同じ豚を、ロンドンで星を取った男の店でフォークで食べている。

どちらが上という話ではない。

4日しかいない街で両方食べられる人間は、そんなに多くない。



9時前に宮下のスマホが鳴った。

出て、現地の言葉で2往復して、切った。

「すみません、上の子が熱出したみたいで」

「行ってください」

「妻がいるんで平気なんですけど、顔は出さないと怒られるんで」

財布を出しかけて、手を止めた。

「グレース、頼むわ」

「はい」


二人になると、店の音が急に聞こえた。

厨房の金属の音と、カウンターの笑い声と、どこかで氷を割る音。

グレースがワインのメニューを引き寄せた。


「宮下さんがいると、飲まないんです」

「怒られるんですか」

「怒りません。運転するので」

赤を1杯頼んだ。

注文するときだけ英語になった。

速かった。

日本語の半分の時間で、倍のことを言っている。


「英語のほうが速いですね」

「日本語は、考えてから言います」

「考えないで言ってみてください」

グレースが声を出して笑った。

この3日で、たぶん初めてだった。


笑うと目が細くなって、顔が3つくらい若くなる。

昼間ラインを案内していた女と、同じ人間に見えない。


「どうして日本語をやったんですか」

「お金です」

即答だった。


「この島は英語ができる人が多いです。多すぎます。英語だけでは上に行けません。日本語だと、給料が違います」

「韓国語は考えなかったんですか」

「考えました。日本の会社のほうが、この島に多かったので」

ずいぶん正直だった。

日本語が好きで覚えました、と言う人間のほうを、三好はたぶん信用しない。


デザートはバジルのシャーベットだった。

ヨーグルトのムースの上に乗っていて、レモンの酸と青い草の匂いが同時に来る。

甘いものを食べない人間のための甘いもの、という顔をしている。


グレースは一口食べて、スプーンを止めた。

「これ、変ですね」

「変ですか」

「おいしいですけど、変です」

「それが一番いい感想だと思いますけど」

彼女は皿を少しだけ三好のほうへ寄せた。


「食べますか」

「もらいます」

スプーンは自分のを使った。そこは守る女だった。


「名古屋は、どんな街ですか」

急に日本語に戻っていた。

「行ったことはあります。道が広くて、ビルが低い。東京より住みやすいと言う人は多い」

「寒いですか」

「冬は寒い。雪はそんなに降らない」

「——そうですか」

彼女は一度うなずいて、それを覚えるみたいな顔をした。


テーブルの上でスマホが光った。

画面はこちらを向いていない。

何も見ていない。

ただ、彼女の手が早かった。

鳴り終わる前に伏せた。

知らない通知の消し方ではない。

何が来たかわかっている人間の手だった。


「すみません」

「見ていいですよ」

「——仕事ではないので」

聞いていない。

三好はそれを、恋人だと思った。

30代前半の女が、夜の食事中に画面を伏せる。

他に読みようがなかった。



店の前でタクシーを待った。

ビジネスパークの歩道は広く、夜になってもまだ暑い。

「三好さん」

「はい」

「明日の夜、宮下さんは来られません」

「聞きました」

「——明日、少しだけ、仕事ではない話をしてもいいですか」

三好は彼女を見た。

目は逸らさなかった。

昨日の歩道では逸らしていた。


「いいですよ」

「ありがとうございます」

礼を言われるような話ではなかった。


タクシーが来た。

彼女が先に乗って、

窓を下げて「お疲れさまでした」とだけ言った。



部屋に戻って、シャワーを浴びながら、

明日の夜のことを考えた。

考えたのは何を話すかではない。

何を話されても、こちらからは手を出さない、という確認のほうだった。

買う側が売る側の社員に手を出した、という一行が社内のどこかに残る。

そのほうがよほど面倒だ。


そう決めてから、三好は一つだけ引っかかりを拾った。

今日あの女がした質問は、全部「どうなるか」だった。


辞めたらどうなるか。

記録はどうなるか。

もう一度行けるか。

一つも、「どこにいるか」がなかった。


探している人間は、まず場所を聞く。

三好はそう思って、それから、この女は探していないのだと結論した。

弟は愛知にいる。

場所はわかっている。

だから聞く必要がない。

当たり前の話だ。


当たり前のことを当たり前だと思って、

三好はシャワーを止めた。



【次話予告】

宮下は来なかった。

彼女が選んだのは、山の上の店だった。市街の明かりが全部、足の下にある。

そこで彼女は、仕事ではない話をした。

三好はそれを聞いて、一つの筋を立てた。




The Pig & Palm(ザ・ピッグ・アンド・パーム)

G/F MSY Tower, Pescadores Road, Cebu Business Park

ロンドンで星を取ったイギリス人シェフが、セブ人の妻の街に出した一軒。ミシュランのビブグルマン。灰色の煉瓦と硬い木の内装は上海の建築家の設計で、カウンターの向こうに厨房が全部見える。

エビのキニラウ(275ペソ)と豚バラは外さない。締めにバジルのシャーベットを。1人1,000〜2,500ペソ、2,600〜6,500円ほど。火曜から日曜の11時から23時、月曜休み。


セブ・ビジネスパーク

アヤラセンター・セブを中心とした市内の business district。歩道が広く、夜でも歩ける数少ないエリアで、宿も店もここに集まっている。

マクタン島の工業団地へ通う出張者は、島側に泊まるか迷うところだが、夜に出るならこちら。ただし朝の橋は7時台で完全に止まる。




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