ここにはないもの [第2話]

更新日:10月13日

【第2話】 愛知にいます
7時にロビーへ下りたら、宮下はもう外にいた。
橋は、言われたとおり死んでいた。
乗った瞬間から動かない。
両側を原付がすり抜けていく。
後ろの人間が、膝に弁当らしい袋を乗せていた。
「これ、毎朝ですか」
「毎朝です」
宮下は顔色を変えずに言った。
「3本目の橋ができたんですけどね。有料だし、降りる場所が違うんで」
工場の門に、グレースが立っていた。
白いシャツに黒いパンツ。
昨日と同じ格好に見えて、シャツだけ違った。
その日は朝からラインの端に入った。
帽子に髪を全部入れて、靴の裏を粘着マットに2回つける。
入った瞬間に冷える。
外の湿気が肌から引いていく。
案内はグレースがした。
工場を案内する人間は、たいてい自分が得意な工程から喋る。
この女は最初から最後まで流れの順に喋って、一度も戻らなかった。
途中で足を止めた。
一つの席で、規定にない動きが入っている。
部品を置く前に、指で縁を一度なぞる。
「これ、手順にありますか」
「ありません」
グレースは即座に言った。
「3か月前からです。バリが出る型があって、その日だけ、みんな勝手に確認しています。手順に入れると検査が1工程増えるので、入れていません」
「入れたほうがいいと思いますけど」
「私もそう思います」
それで終わりだった。言い訳も取り繕いもない。
悪くない工場だった。
手順に書けば検査が増える。
増えれば原価が上がる。
だから書かない。
書かないまま、誰かが毎日一回だけ余計に指を動かして、不良を止めている。
そういう現場はたいてい強い。
記録には何も残らないが。
休憩は10時半からの15分。
建屋の裏に屋根だけの休憩所がある。
プラスチックの椅子と、壁の小さな窓。
そこで袋入りのコーヒーを売っていた。
粉と砂糖とミルクが混ざっていて、湯を注ぐと全部同じ味になる。
グレースは紙コップを両手で持っていた。
気温34度の屋外で、熱いものを両手で持つ。
この国の人間はそうする。
「三好さん」
「はい」
「日本の会社は、実習生が途中でいなくなったとき、どこに連絡しますか」
昨日の夜の続きで、昨日より具体的だった。
「監理団体でしょう。それと入管」
「監理団体から、こっちの会社にも来ますか」
「来ると思います。送り出した側だから」
「記録は、何年残りますか」
「知らない。調べたことがない」
「そうですか」
彼女は紙コップを持ち替えた。
「一度いなくなった人は、もう日本に行けませんか」
「たぶん無理でしょう」
「たぶん、ですか」
「俺は人事じゃないんで」
質問の数が多かった。
ただ、どれも制度の話だ。
辞めたらどうなるか。
記録はどうなるか。
もう一度行けるか。
38人を送り出している総務の人間が知りたがっても、おかしくはない。
「詳しいですね。日本のことを、ずいぶん調べている」
「弟がいます」
「日本に?」
「愛知です」
「何年目ですか」
「2年と4か月です」
また、即答だった。
「会ってないんですよね」
「はい」
「寂しいでしょう」
「元気です」
答えになっていなかった。
ただ、人は家族のことを聞かれると、少しずれた答えを返す。
三好の母親も同じことをする。
「どんな弟ですか」
「まじめです。背が高くて、よく食べます」
すらすら出てきた。
何度も言ったことのある説明の出方だった。
姉とはそういうものだろうと三好は思った。
この女は弟のことで何か抱えている。
そうでなければ、客の前で制度の話を三つも並べない。
相談したいが、立場がある。
買う側の人間に個人の頼みごとをするのは、
この女の線の引き方に引っかかるのだろう。
だったら、こちらから聞いてやるのが筋だ。
そう思って、三好は聞かなかった。
答えさせたら、彼女は自分で引いた線を一本またぐことになる。
三好は、自分が礼儀正しいことをしていると思っていた。
午後は値段の話で、動かなかった。
宮下の原価表は為替の前提が古い。
それを言うと「持ち帰ります」と返ってきた。
この業界で持ち帰りますは、いまは動かせないと同じ意味だ。
悪い男ではない。
それと数字が出ることは、別の話だ。
「今日はグレースに選ばせます」
帰りの車で宮下が言った。
「私が選ぶと毎回豚になるんで」
結果から言うと、今日も豚だった。
店はビジネスパークのビルの1階にあった。
灰色の煉瓦と硬い木。
設計は上海の建築家で、スペイン植民地時代の様式を現代に置き直したのだという。
実際に入ると、理屈より先に天井の高さが目につく。
カウンターの向こうで厨房が全部見えていて、火が動いている。
作ったのはイギリス人だった。
ロンドンで星を取った男で、修業先はスペインの、実験みたいな料理を出す店だったという。
セブに店を出した理由は単純で、奥さんがセブの人だからだ。
最初に来たのは、エビのキニラウだった。
キニラウはこの国の酢締めで、セビーチェに近い。
カラマンシーで締めたエビに、青いパパイヤの漬けたのとココナッツが乗る。
酸が先に立って、最後にココナッツの脂が口の中を丸くする。275ペソ、700円ほど。
豚バラは皮が立っていた。
昨日の炭火とは別の作り方で、脂を抜いてから表面だけを強い火で起こしてある。
噛むと皮が音を立てずに割れた。
音を立てないほうが、たぶん難しい。
昨日は同じ島の豚を、1キロ4,000円で手で食べた。
今夜は同じ豚を、ロンドンで星を取った男の店でフォークで食べている。
どちらが上という話ではない。
4日しかいない街で両方食べられる人間は、そんなに多くない。
9時前に宮下のスマホが鳴った。
出て、現地の言葉で2往復して、切った。
「すみません、上の子が熱出したみたいで」
「行ってください」
「妻がいるんで平気なんですけど、顔は出さないと怒られるんで」
財布を出しかけて、手を止めた。
「グレース、頼むわ」
「はい」
二人になると、店の音が急に聞こえた。
厨房の金属の音と、カウンターの笑い声と、どこかで氷を割る音。
グレースがワインのメニューを引き寄せた。
「宮下さんがいると、飲まないんです」
「怒られるんですか」
「怒りません。運転するので」
赤を1杯頼んだ。
注文するときだけ英語になった。
速かった。
日本語の半分の時間で、倍のことを言っている。
「英語のほうが速いですね」
「日本語は、考えてから言います」
「考えないで言ってみてください」
グレースが声を出して笑った。
この3日で、たぶん初めてだった。
笑うと目が細くなって、顔が3つくらい若くなる。
昼間ラインを案内していた女と、同じ人間に見えない。
「どうして日本語をやったんですか」
「お金です」
即答だった。
「この島は英語ができる人が多いです。多すぎます。英語だけでは上に行けません。日本語だと、給料が違います」
「韓国語は考えなかったんですか」
「考えました。日本の会社のほうが、この島に多かったので」
ずいぶん正直だった。
日本語が好きで覚えました、と言う人間のほうを、三好はたぶん信用しない。
デザートはバジルのシャーベットだった。
ヨーグルトのムースの上に乗っていて、レモンの酸と青い草の匂いが同時に来る。
甘いものを食べない人間のための甘いもの、という顔をしている。
グレースは一口食べて、スプーンを止めた。
「これ、変ですね」
「変ですか」
「おいしいですけど、変です」
「それが一番いい感想だと思いますけど」
彼女は皿を少しだけ三好のほうへ寄せた。
「食べますか」
「もらいます」
スプーンは自分のを使った。そこは守る女だった。
「名古屋は、どんな街ですか」
急に日本語に戻っていた。
「行ったことはあります。道が広くて、ビルが低い。東京より住みやすいと言う人は多い」
「寒いですか」
「冬は寒い。雪はそんなに降らない」
「——そうですか」
彼女は一度うなずいて、それを覚えるみたいな顔をした。
テーブルの上でスマホが光った。
画面はこちらを向いていない。
何も見ていない。
ただ、彼女の手が早かった。
鳴り終わる前に伏せた。
知らない通知の消し方ではない。
何が来たかわかっている人間の手だった。
「すみません」
「見ていいですよ」
「——仕事ではないので」
聞いていない。
三好はそれを、恋人だと思った。
30代前半の女が、夜の食事中に画面を伏せる。
他に読みようがなかった。
店の前でタクシーを待った。
ビジネスパークの歩道は広く、夜になってもまだ暑い。
「三好さん」
「はい」
「明日の夜、宮下さんは来られません」
「聞きました」
「——明日、少しだけ、仕事ではない話をしてもいいですか」
三好は彼女を見た。
目は逸らさなかった。
昨日の歩道では逸らしていた。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
礼を言われるような話ではなかった。
タクシーが来た。
彼女が先に乗って、
窓を下げて「お疲れさまでした」とだけ言った。
部屋に戻って、シャワーを浴びながら、
明日の夜のことを考えた。
考えたのは何を話すかではない。
何を話されても、こちらからは手を出さない、という確認のほうだった。
買う側が売る側の社員に手を出した、という一行が社内のどこかに残る。
そのほうがよほど面倒だ。
そう決めてから、三好は一つだけ引っかかりを拾った。
今日あの女がした質問は、全部「どうなるか」だった。
辞めたらどうなるか。
記録はどうなるか。
もう一度行けるか。
一つも、「どこにいるか」がなかった。
探している人間は、まず場所を聞く。
三好はそう思って、それから、この女は探していないのだと結論した。
弟は愛知にいる。
場所はわかっている。
だから聞く必要がない。
当たり前の話だ。
当たり前のことを当たり前だと思って、
三好はシャワーを止めた。
【次話予告】
宮下は来なかった。
彼女が選んだのは、山の上の店だった。市街の明かりが全部、足の下にある。
そこで彼女は、仕事ではない話をした。
三好はそれを聞いて、一つの筋を立てた。
The Pig & Palm(ザ・ピッグ・アンド・パーム)
G/F MSY Tower, Pescadores Road, Cebu Business Park
ロンドンで星を取ったイギリス人シェフが、セブ人の妻の街に出した一軒。ミシュランのビブグルマン。灰色の煉瓦と硬い木の内装は上海の建築家の設計で、カウンターの向こうに厨房が全部見える。
エビのキニラウ(275ペソ)と豚バラは外さない。締めにバジルのシャーベットを。1人1,000〜2,500ペソ、2,600〜6,500円ほど。火曜から日曜の11時から23時、月曜休み。
セブ・ビジネスパーク
アヤラセンター・セブを中心とした市内の business district。歩道が広く、夜でも歩ける数少ないエリアで、宿も店もここに集まっている。
マクタン島の工業団地へ通う出張者は、島側に泊まるか迷うところだが、夜に出るならこちら。ただし朝の橋は7時台で完全に止まる。


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