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あの日 僕は咄嗟に嘘をついた [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月9日
読了時間: 4分

更新日:8月10日




【第3話】 その封筒を、まだ開けていなかった


奈緒が取り出したのは、白い封筒だった。

宛名は書いていなかった。

受け取ると、しっかりとした紙の重さがあった。


「姉の字です。一人で読んでほしい、と言われていて」

「今夜は、まだ読まなくていいですか」

奈緒は少し考えてから、頷いた。


三好は封筒をスーツの内ポケットに入れた。

雨の石畳に水が流れていた。

タクシーを呼ぼうとしたが、奈緒は動かなかった。

三好も動かなかった。


「ヴェルムートが飲みたくなりました」

「この時間にですか」

「Piazza Castelloのあたりに、良い店があります」

奈緒は少し間を置いた。

「少しだけなら」


Caffè Mulassano——Piazza Castello 15。1907年創業。

Piazza Castelloに面したアーケードの奥、引き戸を開けると12席ほどの空間が現れる。

腰板張りの壁、古いミラー、真鍮のシャンデリア。

バーカウンターはわずか4席だった。


トリノはヴェルムートの発祥地だが、この店はその歴史の端に必ず名前が出てくる。

Punt e Mes(€8)、Carpano Antica Formula(€9)。

グラスを傾けると、ハーブと苦みが鼻の奥を抜けた。


奈緒はCarpano Anticaを選んだ。

三好は同じものを頼んだ。

「姉は、あなたに連絡したかったと思います」

奈緒はカウンターのミラーを見ながら言った。

自分に言い聞かせるように。


「でも——また巻き込んでしまうと、それが怖かったんだと思う」

「別れを切り出したのも、そういう理由だったんですか」

奈緒は少し間を置いた。

「詳しくは聞いていません。ただ、後悔はしていたと思います。写真を手放せなかったこと——それだけは、わかります」

三好はグラスを回した。


「奈緒さんは、写真を見た時から俺のことを知っていた」

「はい」

「Caffè Elenaで俺を見て、すぐにわかった」

「はい」

「初めて見た時、どう思いましたか」

奈緒はグラスを見たまま、少し考えた。


「姉が、この人を選んだんだと——思いました」

三好は奈緒の横顔を見た。

ユキに似ていた。似ていないとも思った。

同じ輪郭なのに、全然違う人だった。


しばらく黙った。

ミラーの中の2人を見た。

「奈緒さんはなぜ、こんなに話してくれるんですか。姉のことを」

奈緒はほんの少し笑った。

「姉に頼まれたことは終わりました。でも——帰れなかったんです、今夜」

それ以上は言わなかった。

グラスが空になった。

三好はもう1杯頼んだ。奈緒も頷いた。


店を出たのは23時過ぎだった。

Piazza Castelloの石畳が、雨上がりの光を反射していた。

「Grand Hotel Siteaって、ここからすぐですよね」と奈緒が言った。

「歩いて5分もかからない」

「私も近くなんです。Via Carloの方」


2人は並んで歩いた。

ゆっくりと、Via Romaのアーケードを抜けた。

石畳に2人分の足音が重なった。

話さなかった。それで十分だった。


ホテルの前に着いた。

「良かったら」と三好は言った。

「もう少しだけ」

奈緒は立ち止まった。

三好の目を、少しの間見ていた。

それから、頷いた。


ホテルの窓から、Piazza San Carloの夜が見えた。

三好はジャケットを脱いだ。

奈緒はソファに座ったまま、窓の外を見ていた。

部屋に入ってから、2人ともあまり喋らなかった。


「ワインがあります」と三好は言った。

「そうですか」と奈緒は答えた。

グラスに注いだが、どちらも飲まなかった。


奈緒が立ち上がった。

窓に近づいて、広場を見た。

三好はその横に立った。

肩が触れるくらいの距離だった。

しばらく、2人とも何も言わなかった。


「三好さん」

奈緒が言った。

三好は答えなかった。

答える前に、距離がなくなっていた。


奈緒の髪に触れた。

ユキに似ていた。

違った。全然違う人だった。

それでも手が止まらなかった。


ブラウスの白が、ランプの光の下で揺れた。

ベッドの上の時間は、ゆっくりと過ぎた。

奈緒の指が三好の首筋に触れた。温かかった。

三好はその温度を確かめるように、奈緒を抱き直した。

奈緒は逃げなかった。

体が少し震えたが、それは寒さではなかった。


何も言わなかった。

言葉があったら、崩れていたかもしれない。

奈緒の目が、薄暗い中でまっすぐこちらを向いていた。

問いかけるでもなく、責めるでもなく。

ただ、そこにいた。

三好は目を閉じた。

スーツの内ポケットには、まだ開けていない封筒があった。



【次話予告】

翌朝、カーテンの隙間から光が入っていた。

隣は空いていた。奈緒はもう帰っていた。

テーブルの上に、グラスが2つ残っていた。そのそばに、白い封筒。

三好はコーヒーを頼み、ゆっくりとそれを開けた。




Caffè Mulassano(Piazza Castello 15)

1907年創業。Piazza Castelloのアーケードに佇む老舗バー。

12席ほどの小さな店内に木の腰板と古いミラーが並び、トリノの時間がそのまま止まったような空間。

Punt e Mes(€8)、Carpano Antica Formula(€9)をはじめ、Vermouth di Torinoの歴史を体感できる。

名物のトラメッツィーニ(€3〜)は地元の常連に長く愛されている。Piazza Castelloから徒歩0分。



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