あの日 僕は咄嗟に嘘をついた [最終話]


【最終話】 あの日 僕は咄嗟に嘘をついた
カーテンの隙間から光が入っていた。
三好は天井を見ていた。
隣は空いていた。奈緒はもう帰っていた。
テーブルの上に、グラスが2つ残っていた。
どちらも、ほとんど飲んでいなかった。
そのそばに、白い封筒。
コーヒーをルームサービスで頼んだ。
届くまでの間、窓の外を見ていた。
Piazza San Carloに朝の光が落ちていた。
人がまだ少なかった。
コーヒーが届いた。
封筒を手に取った。
ゆっくりと開けた。
ユキの字だった。日付は3週間前だった。
「この手紙を読んでいるってことは、私が緊急事態で対応できていないということだね。
きっとあなたのことだからマリーニ社との商談、うまくやってくれたよね。」
書き出しはそんな感じだった。
それからUSBの中身についての説明が続いた。
品質検査データの改ざん、財務書類の写し。
三好の会社が被害を受ける前に動いてほしかった、と。
ここまでは予想の範囲だった。
最後の行を読んだ。
「奈緒に頼んだのは、あなたを信じているから。
2人とも、もうこの件には関わらないでほしい。奈緒をよろしく頼みます。」
三好は手紙を折り、封筒に戻した。
コーヒーに口をつけた。冷めていた。
シャワーを浴びて、スーツに着替えた。
Ristorante Carignano——Grand Hotel Siteaの1階にある。
白いリネンのテーブルクロスに、朝の光が落ちていた。
クロワッサンとエスプレッソ。
ピエモンテ産のハチミツが小さな器で添えられていた。
自分以外に客はいなかった。
窓の外、Via Carlo Albertoを人が歩き始めていた。
ここが3日間の定位置だった。
そう思った瞬間、旅の終わりに気づいた。
携帯を確認した。
奈緒からメッセージが届いていた。
「おはようございます。今日、いつ発たれますか?」
少し考えてから返した。
「夜の便です。もし時間があれば、昼に会えますか」
返信は早かった。
「はい」
昼、Piazza San Carloに面したカフェで待ち合わせた。
奈緒は時間通りに来た。
昨夜と同じ黒髪。
今日は少し違う印象があった。
笑顔が、少し緊張していた。
「最後に、少し街を歩きたかったんです」
「案内してもらえますか」
Piazza Castello方向へ歩いた。
昨夜雨が降っていた石畳は、昼の光の中で乾いていた。
観光客がモレ・アントネッリアーナに向かってカメラを向けていた。
アーケードの下に本屋があって、奈緒が少し立ち止まった。
それから、また歩いた。
「ユキからの手紙、読みましたか」
「読みました」
「どうでしたか」
三好は少し間を置いた。
「最後の一行が、少し重かったです」
奈緒は頷いた。何も言わなかった。
しばらく歩いた。
昼間のトリノは夜と違う顔をしていた。
明るくて、少し無防備だった。
Piazza Carignanoの前に出た。
Del Cambioが見えた。
3日前、ここで封筒を受け取った。
奈緒も気づいたのか、少し立ち止まった。
「3日で、随分変わりましたね」と奈緒が言った。
「何が?」
「私が、です」
奈緒はPiazzaの方を見ていた。
「姉のことを伝えるだけのつもりでした。それだけのはずでした。でも——」
そこで止まった。続きは言わなかった。
三好は何も言わなかった。
アーケードの下を歩いた。
本屋の前で奈緒が少し立ち止まった。
「気が滅入った時に来るんです。買わなくていい本を選ぶだけ」と言った。
イタリア語の背表紙が並んでいた。
三好は隣に立って、しばらくそれを見ていた。
「行きましょうか」と奈緒が言った。
ホテルの前で立ち止まった。
「空港まで、送りましょうか」と奈緒が言った。
「大丈夫です」と三好は言った。
奈緒は頷いた。
三好は歩き始めた。
「三好さん」
振り返ると、奈緒がそこに立っていた。
「——また、会えますよね」
少し間があった。
「はい」と三好は言った。
奈緒は小さく頷いた。
それから、ゆっくり首を振った。
「嘘です。そんなこと、聞くつもりじゃなかった」
三好は何も言わなかった。
奈緒も何も言わなかった。
「気をつけて」と奈緒は言った。
それだけだった。
三好はアーケードの方へ歩き始めた。
振り返らなかった。
フレッチャルジェントでミラノへ向かう車内、窓の外を見ていた。
北イタリアの平野が流れていた。
小麦色の畑に、薄い霧がかかっていた。
スマホに通知が来た。
奈緒からだった。
「今日、ありがとうございました。私もあなたのことが好き。」
三好は画面を見た。
「俺もです」と打ちかけて、やめた。
あの日、俺は咄嗟に嘘をついた。
何度目かは、もう数えていない。
俺は優しい嘘はもうつきたくない。
奈緒も、きっとそうだった。
スマホをポケットに戻した。
畑が、霧に消えていった。
奈緒はその夜、三好からの返信を待った。
返信は、来なかった。
三ヶ月後、イタリアの経済専門誌がマリーニ社の調査報道を掲載した。
品質検査データの組織的改ざん、および財務書類の虚偽申告。
イタリア当局が捜査に入ったという短い記事だった。
業界内では複数の取引先が契約を解除し、株価は三日で三割近く下落した。
三好の会社の判断は、結果的に正しかった。
誰も詳しい理由を聞かなかった。
三好は自席でそのニュースを読んだ。
ユキのことを、少し思った。
<完>

Ristorante Carignano(Grand Hotel Sitea、Via Carlo Alberto 35)
Grand Hotel Siteaの1階に構えるホテルレストラン。
白いリネンのテーブルクロス、磨かれた床、静かなサービス——5つ星ホテルにふさわしい格式を保ちながら、ピエモンテの食材を軸にした朝食からランチまでを提供する。
クロワッサンとエスプレッソのモーニング(€18〜)。Via Carlo Alberto沿いの窓から差し込む朝の光が、トリノ滞在最後の時間に似合う場所。

Torino Porta Nuova(Piazza Carlo Felice)
トレニタリアの高速列車フレッチャルジェントが発着するトリノの中央駅。
ミラノ・マルペンサ空港まで約1時間。1864年開業、ネオクラシカル様式の駅舎は今も現役で使われている。



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