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あの日 僕は咄嗟に嘘をついた [第1話 / 全4話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月7日
読了時間: 5分

更新日:8月10日




【第1話】 誰かの代わりに、会いに来た


トリノには何度か来ていた。

だが、今回は少し違った。


翌日、マリーニ社本社との商談が控えていた。

自動車部品の長期供給契約——会社にとっては数十億規模の案件だった。

準備は万全だった。

それだけのために来たはずだった。

それだけじゃなかった。


ミラノ・マルペンサ空港からフレッチャルジェント号で

トリノ・ポルタ・ヌォーヴァ駅に着いたのが午後4時過ぎだった。

Grand Hotel Siteaまでタクシーで10分。

Piazza San Carloの裏に建つ5つ星ホテルは、今回で3度目だった。

チェックインを済ませ、荷物を置いた。

窓からPiazza San Carloの石畳が見えた。

夕方の光の中で、広場はどこか舞台のように静かだった。

スーツのまま部屋を出た。


ユキから連絡が来たのは3日前だった。

「会えますか。商談の前日に、トリノで」


10年以上ぶりだった。

別れを切り出したのはユキの方だった。

俺は何も言わなかった。

言えなかったのかもしれない。

なぜ今なのか、なぜ俺がトリノに来ることを知っているのか——疑問はあった。

それでもすぐに返信した。

会いましょう、と。

送信してから、自分が思ったより迷わなかったことに気づいた。


Piazza Vittorio Venetoに出ると、夕暮れの光がポー川の水面を赤く染めていた。

丘の向こうに、スペルガ大聖堂のシルエットが見えた。


Caffè Elenaは広場の角にある。1899年創業。

エレガントな内装、大きな窓、石畳に張り出したテラス席。

待ち合わせ場所として、ユキが選んだのはここだった。


19時の約束だった。

19時15分。ユキは来なかった。

コーヒーを頼んだ。飲み終えた。

テラスから広場を何度も見渡した。

それらしい人影はなかった。

スマホを確認した。メッセージはない。

もう1度、広場を見た。

トリノの夜が始まっていた。


席を立とうとした、その時だった。

「Scusi, ha perso questo?」(すみません、落としましたか?)

店を出ていくため俺の後ろを通った女が、イタリア語でそう言った。


小さく折りたたまれた紙を差し出した。

俺は何も落としていなかった。

受け取れ、ということだった。

女はそのまま足を止めず、広場の方へ歩いていった。

紙を開いた。手書きの日本語だった。


——Del Cambio。Piazza Carignano 2。1時間後に。

読んだ後キョロキョロと振り向かないで。つけられているから。


Del Cambioは歩いて15分ほどだった。1757年創業。

トリノで最も古い格式ある高級レストランのひとつ。

Piazza Carignanoに面した扉を開けると、19世紀のフレスコ画が天井まで広がっていた。

金箔の壁装飾。背の高い鏡が壁に沿って続く。

クリスタルのシャンデリアが暖かい光を落としていた。

フロアを歩くと、原木のパルケットが踏むたびに低く軋んだ。


案内されたのは奥の小部屋だった。

リソルジメントの間——カヴール伯爵がかつて通いつめた部屋だ、とここに来るたびウェイターが教えてくれる。


席についてほどなく、女が現れた。

先ほどの女だった。

30代の手前、くらいだろう。

細身で、目が静かだった。

黒髪を後ろで束ねている。

スーツではなく、シンプルなダークトーンのワンピース。


「お待たせしました」

「日本の方、ですよね」

「はい。奈緒といいます」

名字は言わなかった。

席につくと、白ワインを頼んだ。

Arneis——ピエモンテ産の辛口白だった。


「ユキから、です」

テーブルの上に、小さなUSBメモリと、1枚の写真が置かれた。


写真を手に取った。

モレ・アントネッリアーナを背景に、2人が並んでいた。

俺と、ユキだった。


いつ撮ったか、すぐにわかった。

付き合い始めて最初の年。

ユキがどうしてもトリノに行きたいと言って、一緒に来た。

あの時、ユキが一番好きだと言っていた場所で撮った写真だった。


それを、奈緒に渡していた。

大切にしていた写真だ、ということは俺にもわかった。

ユキがこの写真を手放したということは——それだけのことが起きている、ということだった。

ことの重さが、じわりと来た。


奈緒がそっと写真を手元に戻した。

「すみません、これは私が預かっているものなので」。

重要なことだと、確かめさせるためだけに見せた、ということだった。


「ユキさんは今、どこに」

「朝から連絡が取れなくて」

アルネーシが運ばれてきた。

グラスを傾けると、白桃とアカシアの香りが鼻に抜けた。


「俺がトリノに来ることは、どうやって」

「姉から聞きました」

「お姉さん?」

「はい。Pininfarnaで一緒に働いていました。私は今もそこにいますが、姉は——」

奈緒は少し間を置いた。


「姉に頼まれたんです。もし連絡が取れなくなったら、これをあなたに渡してほしい、と」

「このUSBに何が入っているか、知っていますか」

「詳細は知りません。『絶対に中身を見るな』と言われていたので」

商談相手のことが入っているのかもしれない。そう直感した。


ヴィテッロ・トンナートが運ばれてきた。

薄切りの仔牛に、ツナと香草のソース。

皿の上は美しかった。

頭の中は、穏やかじゃなかった。


「お姉さんの名前、もう一度聞いてもいいですか」

奈緒はグラスを置いた。

少し間があった。


「ユキといいます」

シャンデリアの光が、金箔の壁に揺れていた。

俺は、グラスを持ったまま固まった。



【次話予告】

USBの中にあったのは、商談相手の品質データ偽装と財務不正の証拠だった。翌朝、三好は本社へ報告し、商談の場でやんわりと断った。だが頭の中にあったのは、数字でも書類でもなかった。ユキの妹——その事実が、まだ胸の中に引っかかっていた。




Caffè Elena(Piazza Vittorio Veneto 5)

1899年創業の老舗カフェ。ポー川を望むPiazza Vittorio Venetoの角に立つ。

エレガントな内装と開放的なテラス席が特徴で、地元の人々と旅行者が交わるトリノの夕暮れ時を楽しむ定番スポット。カフェ(€2〜)、ヴェルムート(€6〜)。

Del Cambio(Piazza Carignano 2)

1757年創業、トリノ最古の格式ある高級レストラン。

リソルジメント運動の中心人物カヴール伯爵が常連だったことでも知られる。

19世紀のフレスコ画、金箔の壁装飾、クリスタルのシャンデリア。

ヴィテッロ・トンナート(€32)、アニョロッティ・デル・プリン(€38)など、ピエモンテの伝統料理をシェフ・マッテオ・バロネットが現代的に解釈したメニューが並ぶ。ミシュラン1つ星。



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