あの日 僕は咄嗟に嘘をついた [第2話]

更新日:8月10日

【第2話】 嘘をついたまま、笑ってみせた
デル・カンビオを出た後、タクシーを拾う気にはなれなかった。
ホテルまで歩いた。
Via Romaのアーケードを抜け、Piazza San Carloに出た。
噴水の周りにまだ人がいた。
カップルが広場を横切っていた。
どこかのカフェから笑い声が漏れていた。
何も目に入らなかった。
「ユキといいます」
奈緒の声が、頭の中に残っていた。
ユキには妹がいたのか。
そういえばユキは家族の話をほとんどしなかった。
俺も聞かなかった。
どちらも悪かったかもしれない。
部屋に戻ったのは23時過ぎだった。
スーツのジャケットを椅子に掛け、PCを開いた。
USBを差した。
フォルダが3つあった。
最初のフォルダは品質検査データだった。
型番ごとに、最終検査の数値と出荷記録の数値が並んでいた。
列を横に見ていくと、食い違っていた。
10から15%程度、系統的にずれていた。
偶然の誤差では説明がつかない数値だった。
2つ目のフォルダには内部承認の書類が入っていた。
「改定版 承認済」のスタンプがあった。
組織的だ、と直感した。
3つ目は取引提案書だった。
明日商談する会社の名前があった。
三好は画面から目を離した。
窓の外、Piazza San Carloの照明が白く滲んで見えた。
ユキがこれをどこで入手したのか。
なぜ俺に渡そうとしたのか。
答えは今夜は出ない。
眠れなかった。
翌朝6時過ぎ、本社の緊急連絡番号に電話した。
担当役員が出た。報告した。
3つのフォルダの内容を、簡潔に話した。
「わかった。ただファクトチェックには最低2週間かかる。
今日の商談を中断する根拠としては弱い。
気取られないようにペンディングで落とせ。理由は言うな」
通話は5分だった。
ルームサービスでコーヒーを頼んだ。
飲みながら、頭の中でセリフを組んだ。
「弊社の期初調整のタイミングと重なっておりまして」
「一度、社内で数字の整理をさせてください」
「来月初めに改めてご連絡できますでしょうか」。
笑顔のまま言える練習を、3回した。
マリーニ社本社へは、タクシーで20分ほどだった。
車窓から、Lingottoの旧工場建屋が見えた。
かつてフィアットの屋上テストコースがあった場所だ。
今は美術館になっている。
車の話をするにはいい街だと、こういうとき思う。
打ち合わせは午後2時の設定だった。
会議室の窓から、敷地内の広い駐車場が見えた。
先方は3名だった。調達担当の副部長と、エンジニアと、法務担当。
プレゼンが始まった。
スライドが切り替わるたびに、三好の中で数値が照合された。
スクリーンに映る品質データと、昨夜のUSBの数字が、頭の中で静かに重なっていった。
相手の目を見ていた。普通だった。
こちらが知っているとは思っていない目だった。
それが、かえって気持ちを引き締めた。
説明が終わり、質疑が一通り終わった。
「非常に魅力的なご提案をありがとうございます。
ただ、弊社内での調整に少しお時間をいただく必要が生じまして。
来月初めに改めてご連絡できますでしょうか」
先方の副部長は頷いた。
「もちろんです」と言った。
笑顔だった。
ロビーで握手した。
エントランスを出た。
タクシーに乗り、ドアが閉まった瞬間、三好は静かに息を吐いた。
車の中でスマホを取り出した。
奈緒にメッセージを送った。
「今日の商談が終わりました。もし時間があれば、今夜また会えますか」
返信は早かった。
「場所、選んでいいですか」
Cannavacciuolo Bistrot——Via Cosseria 2。
Piazza Bodoniから歩いてすぐのところにある。
ミラノで2つ星を持つシェフ・アントニーノ・カンナヴァッチュオロがトリノに開いたビストロで、ミシュラン1つ星。
白と濃紺を基調にした内装は落ち着いていながら温かみがあり、テーブルの間隔が広い。
声が届きすぎない。
長い一日を終えて、もう少しだけ本音に近い話がしたいと思える場所だった。
奈緒はすでに席についていた。
昨日のスーツではなく、白いブラウスを着ていた。
黒髪が、照明の中で昨日と少し違う柔らかさに見えた。
「今日、うまくいきましたか」
「なんとか。持ち帰り、という言葉だけは長年練習してきたので」
「その流れで私を持ち帰らないでくださいね」
奈緒はそれを聞いて、少し笑った。
アミューズが運ばれてきた。
バターナッツのムース、黒トリュフのアクセント。
ひと口で食べてしまうのが惜しいような皿が小さく並んだ。
話した。
Pininfarina入社のきっかけ。
日本の大学でデザインを学んだこと。
トリノに来て5年が経つこと。
奈緒は話し上手ではなかったが、言葉が丁寧で、聞いていて飽きなかった。
「ユキさんはもっと前から来ていたんですか」
「姉が先です。私が後から追いかけた、という方が正確かもしれません」
「姉妹でPininfarina、というのも珍しい」
「偶然ではないと思います。でも話し合ったこともなくて。お互いそうなった、という感じで」
タリアリン・アル・タルトゥーフォが運ばれてきた(€29)。
薄く、卵の色が濃い麺に、黒トリュフが細かく削られていた。
ひと口食べると、卵の濃厚さとトリュフの香りが混ざった。
「ユキさんは今も連絡が取れているんですか」
奈緒は少し間を置いた。
「はい。どこにいるかは——教えられないですが。しっかり生活しています」
それだけで、三好の中の何かが少し緩んだ。
バローロのグラスを傾けた。
タンニンが強く、長い余韻があった。
食事の後半、話が弾むようになっていた。
奈緒はピエモンテワインの話をよく知っていた。
ランゲとモンフェッラートの違いを、少し得意げに話した。
三好は聞きながら、自分が笑っていることに気づいた。
食後のピッコラ・パスティッチェリアが運ばれてきた。
小さなチョコレートと砂糖菓子が並んだ。
奈緒はその中の一つを手でつまんで、口に運んだ。
「姉があなたのことをよく話していた理由が——今日、少しわかった気がします」
三好はグラスを置いた。
「どういう意味ですか」
奈緒は少し笑って、首を振った。
「なんでもないです」
それ以上は言わなかった。
店を出ると、石畳が濡れていた。
いつの間にか雨が降っていた。
Piazza Bodoniには人がいなかった。
タクシーを待ちながら、2人は少し並んで立っていた。
「あの」と奈緒が言った。
三好は振り返った。
「姉から預かっているものが、もう一つあります。USBではなく」
奈緒はハンドバッグに手を入れた。
【次話予告】
奈緒が封筒を取り出した。白い、薄い封筒だった。
「一人で読んでほしい」——そう言われていたから、三好はそれをポケットに入れた。
もう少しだけ、と2人は並んでPiazza Castelloへ向かった。封筒を開けたのは、翌朝だった。

マリーニ社本社エリア(Corso Agnelli周辺)
フィアット創業の地、Mirafiori地区に広がるマリーニ社の本社施設群。
かつてLingottoの屋上テストコースに象徴されたイタリア自動車産業の心臓部は、今も世界の部品サプライヤーが集まるビジネスの拠点であり続けている。

Cannavacciuolo Bistrot(Via Cosseria 2, Piazza Bodoni近く)
ミラノとヴェルバーニアで2つ星を誇るシェフ・アントニーノ・カンナヴァッチュオロのトリノ店。
ミシュラン1つ星。白と濃紺の落ち着いた内装、広めのテーブル配置が特徴。
定番のタリアリン・アル・タルトゥーフォ(€29)をはじめ、ピエモンテの食材を軸にしたモダンなコース料理が揃う。ピエモンテワインのリストも充実。Piazza Bodoniから徒歩2分。



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