Out of the blue [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 7月4日
- 読了時間: 5分

【第2話】 パパラッチより速く
エロイーズからメッセージが届いたのは、翌朝7時だった。
「昨日はありがとう。もし今日も時間があれば」
どこで俺の連絡先を手に入れたのかは書いていなかった。
Renaultのブースで俺のことを調べたのかもしれない。
名刺交換はしていない。
それでも手に入れた。
午前中にStellantisとの会議があった。
先方のVPは予想以上に前向きで、次のステップを具体的に話し合う段階まで進んだ。
ランチ後に少し時間が空く。
「午後2時なら」と返した。
待ち合わせはマレ地区にした。
エロイーズが指定してきた。
観光客の多いマレではなく、少し奥に入ったリュー・デ・ロザンヌの角。
確かに地元の人間しか待ち合わせに使わない場所だった。
エロイーズは黒いコートに白いシャツだった。
昨夜と印象が違う。
仕事の顔ではなく、私服の顔だった。
「ありがとうございます、来てくれて」と彼女は言った。
「こちらこそ」と俺は答えた。
マレを歩いた。
エロイーズが案内した。
17世紀の邸宅が並ぶ通り、壁一面に描かれたストリートアートの路地、小さなヴィンテージショップ。
パリガイドには載っていない場所を、エロイーズは迷いなく歩いた。
「パリは長いんですか」
「生まれてからずっとです」と彼女は言った。
「でも子供のころはパリが嫌いでした。観光客が多くて、本当のパリじゃない気がして」
「今は?」
「今は好きです。本当のパリがどこにあるかわかったから」
どこだ、と聞こうとして、やめた。
答えを聞くよりも、歩き続ける方がいい気がした。
夕方、Little Red Doorに入った。
マレ地区、リュー・ドゥ・ランシエンヌ・コメディ。
外観は文字通り小さな赤いドアだけで、看板はない。
バックバーにはパリのカクテルシーンを牽引するバーテンダーたちが並んでいる。
季節ごとにコンセプトが変わるシグネチャーカクテルで知られ、ミシュランのバーガイドにも掲載されている一軒だ。
エロイーズが「好きな場所」と言った理由が、中に入ってわかった。
派手さがない。でも、わかる人間だけが来る。
エロイーズはVerveine Citronnée のカクテルを頼んだ。€16。
レモンバーベナと柑橘を合わせた、軽くて香りの高い一杯だ。
俺はアルマニャックベースのカクテルを選んだ。
南西フランスのブランデーが、パリの夜に合っていた。
会話が続いた。
エロイーズが撮影の話をした。
モデルの仕事は「自分を消すこと」だと言った。
カメラの前では自分がいてはいけない、と。
「でも昨日のあなたは逆でしょう。あの瞬間、あなた以外の全員が消えていた」
それは褒め言葉なのか、観察なのか、わからなかった。
でも的確だと思った。
二杯目を頼もうとしたとき、エロイーズが「少しだけ待って」と言った。
店の外に人の気配があった。
ドアのガラス越しに、外に人影が見えた。
二人、三人。
カメラを持っている。
「パパラッチです」とエロイーズが小さく言った。
「昨日から追われています。先週のショーの後から」
俺は店の中を見渡した。
裏口がある。
バーテンダーに一言告げると、すぐに通してくれた。
パリの裏口は狭く、石畳が濡れていた。
エロイーズの手首を持って早足で歩いた。
角を二つ曲がって、タクシーを拾った。
後部座席に乗り込んだとき、エロイーズが小さく笑った。
「Out of the blue」と彼女は言った。
英語だった。
「どういう意味ですか」
「突然、予期せず、ということ。英語の表現です」と彼女は言った。
「あなたのことが、そんな感じで」
突然現れた、ということか。
タクシーが走り出した。
エロイーズが窓の外を見た。
パリの夜が流れた。
「うちに来ますか」と彼女は言った。
普通の声だった。
特別なことを言っているような口調ではなかった。
「もう少し、ゆっくり話したい」
セーヌ川沿いで降りた。
エロイーズのアパルトマンは、5区の裏路地にあった。
石造りの建物の4階、エレベーターは古くて狭い。
廊下に薄いラベンダーの香りがした。
ドアを開けると、セーヌの対岸が窓いっぱいに広がっていた。
夜のパリがそこにあった。
「いい部屋ですね」と俺は言った。
「モデルを10年やっていると、これくらい持てます」とエロイーズは言った。
自慢ではなく、事実として。
棚にフィルムカメラが並んでいた。
仕事用ではなく、プライベートで撮るものらしかった。
「何を撮るんですか」
「消えていくものを」と彼女は言った。
「パリは毎年、少しずつ変わっていく。気づいたときには、もうなくなっている」
ワインを開けた。
エロイーズが選んだのはブルゴーニュの白だった。
セーヌを見ながら飲んだ。
会話は途切れなかった。
モデルの話、パリの話、日本の話。
エロイーズは東京に行ったことがないと言った。
「でも行きたい」と言った。
「消えていくものが、たくさんあると聞いた」
「東京に来たら、案内しますよ」と俺は言った。
エロイーズが少し笑った。「本当に?」
「本当に」
それが本当かどうかは、そのときはまだわからなかった。
どこかで、時間が変わっていた。
【次話予告】
翌朝、目が覚めたとき、エロイーズはすでにキッチンにいた。
パリの朝の光が、アパルトマンに入ってきた。
帰国まで、あと一日だった。

Little Red Door(パリ3区)
リュー・ドゥ・ランシエンヌ・コメディ60番地。
マレ地区の路地に佇む、文字通り「小さな赤いドア」だけが目印のバー。
看板なし、予約なし、知る人ぞ知る一軒。
ミシュランのバーガイドに掲載され、季節ごとにテーマが変わるシグネチャーカクテルで世界的に知られる。
Verveine Citronnée(€16)はレモンバーベナと柑橘を合わせた軽い一杯で、パリの夕暮れに合う。
パパラッチから逃げ込む裏口もある。



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