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Out of the blue [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
7月5日
読了時間: 5分



【第3話】 マレのアパルトマン


5区の夜は静かだった。

エロイーズのアパルトマンは4階建てのオスマン様式の建物で、天井が高く、窓が大きかった。

セーヌ川までは歩いて3分。

ベランダからはアルシュヴェック橋のランプが見えた。


ブルゴーニュの白を二人で空けた。

ドメーヌ・ルフレーヴ、2020年。

エロイーズが選んだ。

仕事柄、ワインの知識はそれなりにあるが、自分では選ばない価格帯だった。


棚には本当に、フィルムカメラが並んでいた。

ライカM6、ニコンFM2、コンタックスT2。

現役で使っているものだと言った。

「デジタルは速すぎる」と彼女は言った。

「私は待ちたい。現像するまで、何が撮れたかわからない方が好き」


その感覚は理解できる気がした。

自動車の商談も、結論が出るまでわからない。

待つことで、何かが熟成される。


「なぜ東京に行きたいんですか」と俺は聞いた。

エロイーズはしばらく答えなかった。

窓の外を見ていた。

「パリは変わりすぎた」と彼女は言った。

「観光客のための街になっている。昔のパリは、もっと汚くて、もっと本物だった。東京はまだ、本物が残っている街だと聞いた」

「変わってますよ、東京も」

「でも壊れる前に、撮りたい」


ワインを口に含んだまま、その言葉の重さを考えた。

消えていくものを記録したいというのは、モデルの仕事と矛盾しない。

カメラの前に立つのも、カメラを持つのも、同じ衝動から来ているのかもしれない。


ボトルが空になった頃、エロイーズが立ち上がってキッチンへ行き、水を持ってきた。

その動作がひどく自然で、ここが彼女のいる場所だと感じた。

「泊まっていく?」と彼女は聞いた。

余計な飾りのない質問だった。

「泊まります」と俺は答えた。

白い壁に街灯の光が届いていた。


エロイーズは背が高かった。

モデルとして培われた体の使い方は、普段の動作の中でも滲み出る。

でも横になると、ただの28歳の女だった。

鎖骨の線が細く、首の後ろに小さなほくろがあった。

肌は思っていたより温かかった。


最初から主導権を渡さなかった。

それが三好のやり方だった。

女が先に来たときでも、受けに回らない。

受けた瞬間に、男は負ける。


エロイーズは声を抑えようとしていた。

でも抑えきれないとき、フランス語が出た。

意味はわからなかったが、言葉は要らなかった。

夜が深くなるにつれて、言葉は減っていった。

最後は静かだった。


目が覚めたら、7時だった。

エロイーズはすでにキッチンにいた。

コーヒーを淹れていた。

見慣れたマキネッタ、見慣れない朝。

「朝ご飯、食べに行こう」と彼女は言った。


アパルトマンを出て、石畳の路地を二人で歩いた。

モンジュ通りに出ると、すぐにわかった。

Boulangerie Eric Kayser だった。

5区のリュ・モンジュ8番地。

ミシュランも認めたパン職人エリック・ケゼールが1996年に開いた本店で、朝7時には行列ができる。

名物のバゲット・モンジュ(€1.30)は天然酵母のみで仕込まれ、皮はパリパリ、中はしっとりとした気泡構造。

クロワッサン(€1.60)は薄い層が幾重にも重なり、噛むとバターが滑らかに溶ける。

テラスに座ってカフェ・アロンジェを頼むと、パリの朝が音を立てて始まる。


バゲットを半分にちぎって分け合った。

エロイーズはブラックコーヒーだけで、パンはゆっくり噛んでいた。

プロとして体を管理しているのが、何気ない動作からわかった。


「今日、帰るの?」と彼女は聞いた。

「明日の朝一番のフライトです」と俺は言った。

「今日はまだパリにいる」

エロイーズが少し笑った。

それがどういう意味の笑いか、この3日間でだいたいわかってきた。


午後は一人でStellantisの担当者に報告書を送り、ホテルに戻って荷造りをした。

連絡してもいいと思ったが、しなかった。

夕方、エロイーズからメッセージが来た。

「夕食、一緒に食べない?最後の夜だから」

断る理由はなかった。


ホテル近くの小さなビストロで、二人でコースを食べた。

デセールが来た頃、エロイーズが言った。

「次はいつ来るの?」

パリに来る予定は、今のところない。

仕事で戻ってくるかどうかはStellantisとの交渉次第だ。

答えようとして、少し考えた。


「Out of the blue かな」と俺は言った。

「突然、予期せず——という感じで」

エロイーズが目を細めた。

「それ、英語の表現じゃない」

「あなたが最初に使ってましたよ」と俺は言った。

「知ってる」と彼女は言った。

「でも、好きじゃない」

「なぜ?」

「突然だと、準備できない」


俺は笑った。

人生の大半は、準備なんてできない。

パリモーターショーで財布を守ることも、このテーブルに座ることも、全部 Out of the blue だった。

でもそれを言葉にはしなかった。


ホテルの前でタクシーを呼んだ。

エロイーズは乗る必要がなかった。

「また」と彼女は言った。

フランス語で。À bientôt.

「また」と俺も言った。


タクシーが動き出した。

後部座席から、エロイーズが立っているのが見えた。

信号が変わって、見えなくなった。

出会いも、別れも、それぞれの仕方がある。


東京に戻ってから、三週間が経った。

仕事は忙しく、パリの記憶は薄れていった。

エロイーズとは時々メッセージを交わした。

向こうはロンドン、ミラノ、バルセロナと動いていた。

モデルの仕事は移動で成り立っている。


5週間後、SNSに流れてきた。

パリ・ファッションウィーク。

春夏コレクション。

Diorのランウェイ。

ファーストルックを歩いていたのが、エロイーズだった。



【次話予告】

あの名前が、世界を動いていた。




Boulangerie Eric Kayser(パリ5区)

リュ・モンジュ8番地。エリック・ケゼールが1996年に開いたブーランジェリーの本店。

天然酵母のバゲット・モンジュ(€1.30)と、薄い層が溶けるクロワッサン(€1.60)で知られる。

毎朝行列ができる、5区の定番。



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