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Out of the blue [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月3日
  • 読了時間: 6分



【第1話】 彼女は最初から、知っていた


10月のパリは、東京より一足早く冬の匂いがする。

Porte de Versaillesの展示会場に、世界中の自動車メーカーが集まっていた。

隔年開催のパリモーターショー

——Mondial de l'Auto。Stellantisの新型EV、BMWの水素エンジン、トヨタが欧州向けに出したコンセプトカー。

どのブースも、見えない未来を売っていた。


三好は商談メモを確認しながら、Stellantisのブースを抜けた。

翌日の午前中、調達部門のVPとの会議がある。

欧州のEV化加速に伴うサプライヤー見直しで、日本側の部品メーカーをどう組み込むか。

その橋渡し役として呼ばれていた。

今日の視察は準備だ。

相手が何を見せたいのかを確かめておきたかった。


Citroënのブースを通り抜けようとしたとき、人混みの中を走り抜ける影があった。

速かった。ジャケットの右手に何か握っている。

後ろで叫び声がした。

フランス語だったが「財布」という単語だけ聞き取れた。


男はこちらに向かってきた。

反射的に動いた。

右腕を取って、体重を利用して壁際に押し込む。

合気道を始めたのは大学のときで、今は二段だ。

実戦で使ったのは、これが初めてだった。

でも体は覚えていた。

男は床に転がった。

その手から、茶色の財布が落ちた。


セキュリティが二人、駆け付けた。

英語で状況を説明して、財布を渡した。

スられた初老の男性が俺の手を握って「merci、merci」と繰り返した。

「De rien」と言った。

フランス語はそれしか知らない。


大したことじゃない、と思いながら視察に戻った。

誰かがこの一部始終を見ていたことには、まだ気づいていなかった。

夜、Le Bristolに戻る前に一杯飲もうと思った。

ホテルの近く、8区の路地に小さなバーがある。

名前も目立った看板もほとんど出ていない、地元客向けの店だ。

ドアを押した瞬間、奥の席で声がした。


女の声だった。

困惑している。

抑えているが、追い詰められている声だ。

背の高いフランス人らしい男が、一人の女の前に立っていた。

女はバースツールに腰かけたまま、小さく首を横に振り続けている。

男は退かない。

グラスを持ったまま、何か言い続けている。


俺が入ってきた瞬間、女が立ち上がった。

「もー、遅いよ!」

日本語だった。

そして女は俺の腕を取って、ぎゅっと組んだ。

「お待たせ」と俺は反射的に言った。

状況は一秒で読めた。

フランス人の男が固まって、それから何も言わずに引いた。

俺たちは連れ立って店を出た。


夜のパリは、10月でも人が外にいる。

女は俺の腕を離して、「ありがとうございます」と言った。

日本語が流暢だった。


「日本人ですか」

「いいえ、フランス人です。でも少し話せます」

背が高かった。173センチ前後か。

ダークブラウンのストレートの髪がまっすぐ肩まで落ちている。

目がヘーゼルグリーンで、街灯の下でも色がわかった。

細身で、骨格がしっかりしている。


「さっきのバーに入りにくくなってしまいました」と俺は苦笑した。

エロイーズが少し笑った。

「じゃあ、お礼に食事をご一緒させてください。私の行きつけの店があります」

渡りに船だと思った。


彼女が連れて行ったのは、Septime というレストランだった。

11区、リュー・ドゥ・シャロンヌ。

バスティーユから歩いて数分、白い壁に手書きの小さな看板だけで、土地勘がなければ素通りする。

だが中に入った瞬間、空気が変わる。

木のテーブル、温かみのある照明、黒板に書かれた今日のメニュー。

シェフ、ベルトラン・グレボーが手がける現代フランス料理は、世界のレストランベスト50に常連として名を連ねる。

エロイーズが迷わず奥の席に進んで、慣れた手つきでワインリストを開いたのを見て、この女はパリを知っている、と思った。


前菜に赤カブとヤギのチーズのマリネを頼んだ。

クルミのビネグレットで和えてあって、土の甘みと乳の酸味が交互に来る。

メインは鳩のロースト、根菜のピュレ添え(€95のコース)。

低温でゆっくり火を入れた胸肉は、噛むたびに肉の密度を感じた。

フランスの10月の夜に合う料理だった。

ナチュラルワインを一本頼んだ。

オレンジワインで、最初の一口は戸惑ったが、二口目から料理の邪魔をしないことがわかった。


食事が進んで、彼女が口を開いた。

「今日、モーターショーにいましたね」

グラスを置いた。

「あのスリを止めた人、あなたでしょう。見ていました」

「ブースにいたんですか」

「ええ。Renaultのブース。仕事で」

俺がモーターショーのモデルだと気づいたのは、そのときだった。


「名前は?」と俺は聞いた。

「エロイーズです」

「いい名前ですね」と俺は言った。

「よく言われます」と彼女は笑った。

「中世フランスが起源で、今は英語圏でも人気があるんです。知性的で優雅な名前だって。自分では調べたことはないですけど」

「誰かに言われたんですか」

「生まれたときからずっと聞かれるので、覚えました」


エロイーズはワインを一口飲んで、続けた。「あなたはどうして咄嗟に動けたんですか」

「合気道をやっています」

「すごい」と彼女は言った。

感嘆より、観察するような目だった。

「でも技術だけじゃない気がします。あの瞬間、周りの人は全員止まっていた。あなただけが動いた」

答えなかった。


ホテルまでタクシーで戻った。

別れ際にエロイーズが名刺を渡してきた。

モデルエージェンシーの名刺だった。

シンプルな白地に、名前と番号だけ。


「また会えますか」と彼女が言った。

「パリにいる間は」と俺は答えた。

部屋に戻って、エロイーズの名前を検索した。

最初のページに出てきたのは、パリ市内に貼られた高級ブランドの大型広告だった。

セーヌ川沿いのビルボード、地下鉄の駅、空港の到着ロビー。

LVMH傘下のブランドが今年の顔に起用した女性の名前が、エロイーズ・マルタンだった。

さっきまでバーの前で「もー、遅いよ!」と俺の腕を組んできた女と、同じ顔だった。



【次話予告】

翌朝、スマートフォンに一件のメッセージが届いていた。

「昨日はありがとう。もし今日も時間があれば」。

エロイーズからだった。

どこで連絡先を手に入れたのかは書いていなかった。

パリ二日目、仕事の前に会うことにした。




Septime(パリ11区)

リュー・ドゥ・シャロンヌ80番地。

バスティーユから徒歩数分、目立たない白い外観が目印。

シェフ、ベルトラン・グレボーが手がける現代フランス料理は、世界のレストランベスト50の常連だ。

季節の食材と自然派ワインへのこだわりが徹底していて、メニューは週ごとに変わる。

鳩のロースト(€95コース)は低温調理の火入れと根菜のピュレの組み合わせが絶品。

パリに住む人間が「特別な夜に連れて行く店」として名前を出す一軒。予約は必須。



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