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I see...  [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月30日
読了時間: 6分

更新日:9月1日




【第3話】 初めて見た顔だった


電話が来たのは7時だった。

カーテンの隙間から、ペナン海峡の朝が薄く入ってきた。


「先方から連絡が入った。早めに回答がほしいそうだ。どう見る?」


上司の声は穏やかだった。

その穏やかさが、三好には圧として届いた。

電話越しの沈黙は、「迷っているのか」という問いと同義だった。


「もう一日、待ってください」

「一日か」

「はい」

「先方は待ちたくないそうだが」

「それでも」

間があった。

「わかった。明日の午前中には答えを出せ」

電話が切れた。



三好はシャワーを浴びながら、数字を整理した。

Straits Precisionの財務内容は健全だった。

技術力も問題ない。

Bayan Lepasの工場はボッシュとの取引実績を持ち、ISO認証も取得していた。

ブレーキセンサー用コンポーネントのサプライヤーとして、条件は揃っていた。


では、なぜ答えが出ないのか。

髪を拭きながら、ナイトスタンドに置いたブリーフィング資料を見た。

数字と図表の隙間に、貼り紙の内容が重なった。


Siti binti Rahmat。4月3日から行方不明。



昼前に外に出た。

George Townの古い街区を歩いた。

スコールが来る前の蒸した空気の中を、観光客と地元の人間が同じ道を使っていた。

ユネスコの世界遺産に登録されたこの区画は、

英国植民地時代のショップハウスと中国系移民の文化とマレー系の暮らしが、

修復されないまま積み重なって今も機能している。


Campbell Streetに入ると、古い食堂の看板が見えた。

「Hameediyah」とある。

1907年創業、ペナン最古のナシカンダルの店だと、宿のコンシェルジュが言っていた。

午前中から人が入っていた。


カウンターの前に立つと、白米をよそった皿に店員が次々とカレーをかけていく。

魚のカレー、牛肉の煮込み、炒めたオクラ、半熟卵。RM23。

テーブルに着くと、周りの客は全員、食事に集中していた。

会話は少なく、皿に向かう顔が一様に正直だった。


三好もカレーを食べた。

スパイスが喉を通る間、昨日の会議を思い返した。

工場ツアーを「次回の訪問時に」と言った際、エグゼクティブが隣の男と一瞬だけ目を合わせた。

あの視線の内容が、まだ届いていなかった。


見られたくないものがある、ということなのか。

それとも単に、段取りの話だったのか。

答えは出なかった。

コーヒーを頼んだ(RM4)。

砂糖が多かった。

ペナンのコーヒーは甘い。


夕方、同じ路地に向かった。

理由を言語化しようとすると、うまくいかなかった。

足が向いた、という方が正確だった。

Meiはいた。

壁の貼り紙の前ではなく、向かいの店の軒先の階段に座っていた。

膝の上にファイルを広げ、ペンを持っていた。

三好が路地に入ると顔を上げた。驚いた様子はなかった。


「また来ましたね」

「また来た」

三好は向かいに立った。

「Ahmad & Associatesという事務所、知っています」

Meiが静止した。

一秒。二秒。

「調べたんですか」

「少し」


Meiはファイルを閉じた。

三好を見た。

その表情に何かが動いた。

怒りではなかった。

驚きとも違った。

それから、笑った。


初めて見た顔だった。

今まで彼女が見せていた表情——

静けさ、慎重さ、何かを測るような目——

とは違う顔だった。

笑うと目尻に細い線が入り、唇の端が上がり、少しだけ疲れが滲んだ。

人間の顔だった。


「労働法専門なんですね」

と三好は言った。

「そうです」

「貼り紙の彼女のことを——」

「バーでもいいですか」

とMeiが言った。



Eastern & Oriental Hotel(E&Oホテル)のロビーを抜け、

奥の「Farquhar's Bar」に入った。

植民地時代の調度品が残るバーだった。

天井が高く、天井扇が緩やかに回っていた。

木製のカウンターに並んで座り、三好はジンを頼んだ。

MeiはAnchorのビールを頼んだ(RM18)。


Meiは話した。

少しずつ、言葉を選びながら。

貼り紙の彼女が姿を消す三日前、Meiの事務所を訪ねてきたという。

持参したのは工場内部の書類だった。

夜間残業の記録と、ヒヤリハット報告書の原本。

提出されているはずの書類が、上層部で書き換えられていた。


「あの人は怖がっていたと思います」

とMeiは言った。

「それでも来るという選択をした」

「会社はその後、彼女を捜していないんですか」

「表向きは捜しています。ただ」


Meiはビールを一口飲んだ。

「見つけたくない人間が捜しても、たいてい見つかりません」

三好はグラスを見た。

氷が溶けていた。

「なぜ、俺に話すんですか」

Meiは少し間を置いた。

「オフレコで話しています。この情報は、公式にはどこにも存在しません」

弁護士の言葉だった。

窓の外で、ペナン海峡が夜になっていた。

夜が深くなった。



三好の部屋にMeiが来た。

ドアが閉まると、バーで続いていた会話が止んだ。

彼女は部屋の中央に立ち、三好を見た。

先に動いたのは三好だった。


Meiの体は、路地で感じた印象より細かった。

それが小さな驚きだった。

弁護士の言葉を使う人間は、もっと硬い体をしているような気がしていた。

根拠のない想像だった。

彼女の肩は滑らかで、シャツの下にあったものと外にあったものとの間に、断絶はなかった。


三好が手を伸ばすと、Meiは逃げなかった。

けれど引き寄せもしなかった。

そのまま、受けた。弁護士が不利な証言を聞くときのように——

感情を遮断したのではなく、感情に飲み込まれることを選ばない、という精度の沈黙で。

それが変わったのは、少し経ってからだった。


彼女の呼吸が変わった。

緊張が溶けたのではなく、違う種類の緊張に移った。

三好の胸に顔を埋めたとき、Meiは目を閉じた。

路地でも、バーでも見せなかった顔だった。

また、初めての顔だった。


三好は何も聞かなかった。

彼女も何も言わなかった。

窓の外でペナン海峡が光っていた。

夜が深くなった。


夜明け前に、Meiが目を覚ました。

三好も眠っていなかった。

天井を見ていた。

「一つ聞いていいですか」

とMeiが言った。



【次話予告】

夜明けに、Meiは部屋を出た。

テーブルの上に折りたたまれた紙が一枚残っていた。

三好はそれを開き、閉じた。報告書の「推薦」欄は、まだ空白だった。




Hameediyah Restaurant(Campbell Street, George Town, Penang)

1907年創業、ペナン最古のナシカンダル(Nasi Kandar)の店。

George TownのCampbell Streetに構える老舗で、地元客に今も愛されている。

ナシカンダルとは、白米に複数のカレーや惣菜をのせて食べるマレー系インド料理。

魚カレー、牛肉煮込み、炒め野菜などを組み合わせてRM23〜。

観光地化した周辺とは異なり、日常の食の時間が流れている。

Farquhar's Bar(E&O Hotel, Lebuh Farquhar, George Town)

1885年創業のEastern & Oriental Hotel(E&Oホテル)内のバー。

英国植民地時代の面影を色濃く残す空間で、高い天井、木製のカウンター、緩やかに回る天井扇が特徴。

ペナン海峡に面したホテルの歴史は、この街が経験したすべての時代と重なっている。

Anchorビール(RM18〜)、各種スピリッツ。



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