I see... [第2話]

更新日:9月1日

【第2話】 たいていそう言います
朝、ブリーフィング資料をもう一度開いた。
昨夜と同じ文字が並んでいた。
でも、読み方が変わっていた。
数字は昨日と変わらない。
成長率も、設備投資の推移も、返済比率も、問題がなかった。
それは確かだ。
だが、数字の下に何があるかは、数字を見ていてもわからない。
バヤンレパスまでタクシーで向かった。
ジョージタウンを離れると、風景が変わった。
コロニアルの建物が消え、工業団地の直線的なフェンスが続く。
インテル、ボッシュ、インフィニオン——
世界中の自動車と電子機器の中身がここで作られている。
ペナン国際空港を降りたとき窓から見えた屋根が、今は目の前にあった。
Straits Precision Componentsの本社は、クリーンな外観のガラス張りのビルに入っていた。
ロビーは白く、スタッフは若く、英語は流暢だった。
会議室のプロジェクターには整然としたスライドが映し出され、
財務サマリー、生産キャパシティ、サプライチェーンの概要が順番に展開された。
担当者の説明は速く、的確で、質問への返答もよどみがなかった。
好印象になるよう設計された場だとわかった。
設備投資の内訳について踏み込んで聞いた。
回答は準備されていた。
品質管理体制について聞いた。
これも準備されていた。
「生産ラインを見せてもらえますか」
と俺は言った。
「デューデリジェンスの一環として、実際の工程を確認したいと思っています」
主担当の男が、隣の同僚に一度だけ目を向けた。
ほんの一瞬だった。
笑顔は崩れなかった。
「もちろんです。次回ご来訪の際に、ラインがフル稼働している状態でご覧いただきたいと思います。今回は事前調整が間に合いませんでしたので」
次回。今回ではなく。
「次回のご来訪に向けて、日程の調整をさせていただきます」
と担当者は続けた。
「わかりました」と俺は言った。
それで話が進んだ。
議題は次のアジェンダへ移り、会議は予定通りに終わった。
何も起きなかった。
ただ、あの一瞬の視線が残った。
笑顔の下で、二人の人間が一秒だけ通信した。
その内容が、俺には届かなかった。
ジョージタウンに戻ったのは、午後2時過ぎだった。
宿から歩いてすぐの路地に、古いペラナカンの食堂があった。
ペラナカンとは、かつて中国から渡ってきた商人たちとマレー系の人々の間に生まれた文化で、
この地に独自の料理と建築と慣習を作り上げた。
食堂はその名残のような場所だった。
タイルの床、木の格子窓、色あせた陶器。
オタクオタクを頼んだ(RM22)。
ペナンの郷土料理で、魚のすり身にコブミカンの葉やレモングラス、
チリを合わせてバナナの葉に包んで炭火で蒸し焼きにする。
葉を開くと湯気とともに独特の香りが立ち上がった。
一口食べると、魚の旨みの奥に南国のハーブが溶け込んでいた。
スパイスが強くなく、複雑だった。
素材の出自がバラバラなのに、混ざっていた。
ペナンという街に、少し似ていると思った。
アヤム・ポンテも追加した(RM36)。
発酵大豆ペーストと芋で鶏を煮込んだニョニャ料理で、醤油ベースに見えて甘みの下に発酵の深みがあった。
何かで一度食べたことがあるような、でも初めて食べる味だった。
食べながら、午前の会議を振り返った。
あの視線の意味を、考えた。
夜、ジョージタウンを歩いた。
昨夜と同じ方向に足が向いた。
意識したわけではなかった。
路地に入ったとき、自然に足が向いていた。
貼り紙は、まだそこにあった。
その少し先、古いショップハウスの低い石段に、誰かが座っていた。
彼女だった。
スマートフォンの画面を見ていた。
こちらに気づいて、顔を上げた。
「今日の商談は、どうでしたか」
俺は一瞬止まった。
昨夜、商談があると話した。
それは本当だ。
だが、なぜここに戻ってくるとわかったのか。
「なぜここにいるとわかったんですか」
「わかっていませんでした。この近くに事務所があるんです」
石段に並んで座った。
誘われてもいなかったが、拒まれてもいなかった。
「名前を聞いてもいいですか」
「Mei」
と彼女は言った。
「それだけですか」
「今のところは」
スマートフォンに視線を戻した。
失礼な感じではなかった。
今日はここまで、と決めた人間の顔をしていた。
「工場の見学を申し込みました」
と俺は言った。
「次回に、という返事でした」
Meiは画面から目を上げなかった。
「たいていそう言います」
「たいてい?」
答えなかった。
ホテルに戻って、スマートフォンで検索した。
彼女が「事務所が近く」と言ったので、
ジョージタウンの法律事務所を絞って調べた。
Ahmad & Associates, Advocates & Solicitors——
アーメニアン・ストリートから2本入った場所にある事務所がヒットした。
専門分野:労働法、雇用紛争。
ウェブサイトのスタッフページを開いた。
Mei Lim、LL.B(Hons)、マレーシア弁護士資格取得2020年。
写真があった。
同じ顔だった。
同じ目だった。
「今のところは」
と彼女は言っていた。
今のところ、わかったことがあった。
【次話予告】
翌朝、上司から連絡が入った。
「先方から早期回答を求める連絡があった。どう見る?」三好は答えを保留した。
夜、Meiに会った。彼女の事務所を知っていると言ったら、少し間があった。
「調べたんですか」「少し」。彼女が笑った。初めて見た顔だった。

Straits Precision Components Sdn. Bhd.(Bayan Lepas, Penang)
架空の企業。実在しない。
ペナンのバヤンレパス工業地帯には、世界的な半導体・自動車部品メーカーが集積している。
IntelのアジアPCB工場、BoschやInfineonの製造拠点が並び、ペナンはアジアの電子・自動車部品サプライチェーンの中核のひとつとなっている。

Kebaya Restaurant(Seven Terraces, Stewart Lane, George Town)
ジョージタウンのStewart Laneに連なる19世紀のペラナカン系ショップハウスを改装したホテル「Seven Terraces」に併設されたレストラン。
ニョニャ(ペラナカン)料理を供する。オタクオタク(RM22〜)、アヤム・ポンテ(RM36〜)。
タイルの床、木格子の窓、古い陶器——ここでしか生まれ得なかった文化の痕跡が、食器の柄にまで宿っている。



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