I see... [第1話 / 全4話]

更新日:9月1日

【第1話】 正確に嘘でもなかった
ペナン国際空港に降りたのは、夕方4時過ぎだった。
着陸前、窓の外にバヤンレパスの工業地帯が見えた。
工場の屋根が夕日を受けて、銀色に広がっていた。
世界遺産の街として知られるペナンだが、飛行機から見える景色は工業都市だった。
インテルの工場、ボッシュの工場。
明日会う会社も、あの屋根のどこかにある。
荷物を受け取って、タクシーに乗った。
バヤンレパスからジョージタウンまで、渋滞を縫いながら20分ほどかかった。
車窓の風景が変わった。
工場地帯の直線的な建物が消え、コロニアル様式の古い建物が現れた。
レンガ、漆喰、色あせたペンキ。
時間の圧が、変わった。
ホテルはジョージタウンの海沿いにあった。
Eastern & Oriental Hotel
——1885年創業、英国植民地時代の社交の中心だった場所だ。
白い外壁、アーチの廊下、テラスからペナン海峡が見える。
チェックインを済ませて部屋に入ると、窓の外に夕暮れの海が広がっていた。
向こう岸にバタワースの灯りが揺れていた。
PCを開いた。明日のブリーフィング資料を最終確認した。
商談相手はStraits Precision Components Sdn. Bhd.——
バヤンレパスの自動車部品メーカーだ。
ブレーキ圧センサーを主力にする会社で、欧州系Tier1への納入実績がある。
今回は日本の自動車メーカーへのサプライヤー認定に向けた初期折衝だった。
財務数字は問題なかった。
成長率、返済比率、設備投資の推移。
どれも悪くない。
だが東京を発つ前、上司が一言だけ言っていた。
「ペナンの工場は、何でもあるからな」
それだけだった。
続きを聞かなかった。
聞くまでもないと思っていた。
シャワーを浴びて、外に出た。
商談前夜に一人で街を歩くのは、いつものことだった。
街の空気を体に入れておくと、翌日の判断が変わる。
理由はうまく説明できないが、そういう習慣があった。
ジョージタウンの夜は、他のアジアの都市とは違う種類の重さがあった。
上海のような圧迫感でも、バンコクのような喧騒でもない。
古い建物がそのまま残っている街特有の、何かが留まっているような感覚がある。
アーメニアン・ストリートに入ると、観光客向けのカフェの灯りと廟の線香の煙が混在していた。
猫が一匹、古い木の扉の前で丸くなっていた。
壁に絵があった。
少年が自転車に乗った絵。
有名な壁画だと後から知ったが、そのときは知らなかった。
路地へ入った。
観光客の声が遠のいた。
壁に一枚、白い紙が貼ってあった。
ミロの色あせた広告と廟の告知の間に挟まれるように、白い紙。
印刷された文章、三言語。
目が動いた。
意識してではなかった。
ただ一つの単語を、目が拾った。
Straits.
機中で読んだ資料の文字列が、脳の中にまだ残っていた。
それが反応した。
読んだ。
「Siti binti Rahmat, factory worker at Straits Precision Components Sdn. Bhd., has been missing since 3rd April. Family requests any information regarding her whereabouts. Please contact——」
(Straits Precision Componentsの工場労働者、Siti binti Rahmatが4月3日から行方不明。家族が情報提供を求めている)
装飾のない文章だった。
名前、会社名、日付、連絡先。
それだけ。
Straits Precision Components Sdn. Bhd.
二時間前に資料で読んだ名前と、一字一句同じだった。
気づいたら、隣に誰かいた。
女性だった。
俺より少し早く読み終えて、それでもそこに立っていた。
肩につかない長さの黒髪。
細い体に、飾りのない服。
立ち方が観光客ではなかった。
「この会社を、知っていますか」
最初、日本語で言ってしまった。
彼女が振り向いた。
黒い目が俺を一度、測るように見た。
英語で言い直した。「この会社を、知っていますか」
「なぜですか」
「明日、ここと商談があります」
何かが変わった。
表情ではなかった。
彼女の周囲の空気の質が、少し変わった気がした。
「行方不明の届けです」
と彼女は言った。
「3ヶ月前のことです。会社はその日、彼女は退勤して帰宅したと言っています。でも家族は、それは違うと言っている」
それだけ言って、歩き出した。
「この人のことを、知っていますか」
と俺は呼びかけた。
立ち止まった。
振り向かなかった。
「No.」
その「No」だった。
嘘をついているのに、動揺がなかった。
選ばれた言葉だった。
何かを取り除いた後の文章のように、きれいだった。
弁護士が証言で使う言葉の質に似ていた——
正確に真実ではないが、正確に嘘でもない。
そういう「No」だった。
気づいたら、後を追っていた。
「なぜついてくるんですか」
と彼女は言った。歩きながら。
「わかりません」
と俺は言った。
「わかりませんで、ついてくるんですか」
「さっきの『No』に形があった」
彼女が止まった。
今度は振り向いた。
「形?」と繰り返した。
「何かを取り除いた後みたいな形。契約書から一条項を丁寧に抜いた後の文章に似ていた」
少し間があった。
「契約書のことを知っているんですか」
「商社です。自動車のサプライチェーンを扱っています」
「そうですか」
また歩き出した。
今度は、少し遅くなっていた。
路地を抜けた先に、古いコピティアムがあった。
白いタイル張りの壁、天井の扇風機、蛍光灯。
地元の老人が二人、無言でコーヒーを飲んでいた。
観光客向けではない店だった。
彼女は当然のように椅子を引いた。
コーヒーを頼んだ(RM3。マレーシアリンギット)。
ペナンのコーヒーは豆を砂糖と一緒に炒っている。
深い焙煎の香りと、わずかな甘さが混ざった独特の味がする。
口に含むと、東京で飲むコーヒーとは別の時間が流れた。
「ここに長いんですか」と聞いた。
「生まれてからずっと」
「ジョージタウンが変わるのを、見てきたんですか」
「変わるものと、変わらないものが残るのと、両方を」
それだけ言った。
続けなかった。
俺も続けなかった。
名前を聞かなかった。
何をしている人か、聞かなかった。
聞けなかったわけではなく——
聞かない方が正確な気がした。
彼女は自分のコーヒーを飲み終えると、勘定を置いて立ち上がった。
俺が財布を出す前だった。
「あの貼り紙は、もう3ヶ月貼ってあります」
と彼女は言った。
「通り過ぎる人は、ほとんど止まりません」
それだけ言って、出ていった。
ホテルに戻った。
ブリーフィング資料をもう一度開いた。
Straits Precision Components Sdn. Bhd.——
さっきまでと同じ文字列なのに、読み方が変わっていた。
上司の言葉が、今さら重さを持った。
「ペナンの工場は、何でもあるからな」
彼女の名前を知らなかった。
何をしている人かも知らなかった。
ただ一つのことだけ知っていた。
あの「No」は嘘だった。
彼女はわかっていた。
俺もわかっていた。
それでも彼女は歩き去り、俺はそれ以上聞かなかった。
正確に真実ではなかったが、正確に嘘でもなかった。
【次話予告】
翌朝、Straits Precisionのオフィスへ向かった。
工場見学を打診すると、担当者と隣の同僚が一瞬だけ目を合わせた。
夜、ジョージタウンに戻ると彼女がいた。名前を聞いた。「Mei」とだけ言った。
「それだけですか」と聞いたら、「今のところは」と答えた。

Eastern & Oriental Hotel(E&O)(10 Lebuh Farquhar, George Town)
1885年創業。英国植民地時代にジョージタウンで社交の中心を担ったホテル。
白い外壁とアーチの回廊が海沿いに連なる。部屋の窓からはペナン海峡と対岸のバタワースが見える。
ラッフルズやジョセフ・コンラッドも宿泊した記録が残る。1泊RM900〜。

アーメニアン・ストリート(Armenian Street)周辺、ジョージタウン
ユネスコ世界遺産に登録されたジョージタウンの中核をなす通り。
19世紀から続く商店主(ショップハウス)が連なり、壁には現代アーティストによる壁画が描かれている。
夜になると観光客が引き、地元の猫と線香の煙だけが残る。

Kek Seng Coffee Shop(格成茶室)(297 Jalan Penang, George Town)
1940年代創業の老舗コピティアム。
ペナンのコーヒーは豆を砂糖・マーガリンと一緒に高温で炒る独特の製法で、深い焙煎香と軽い甘さが混在する。
重い陶器のカップに注がれるコーヒーは、RM3〜。
白いタイルの壁、天井の扇風機、蛍光灯——観光地化されていない、街の人間の時間が流れている。



![I see... [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_ab22cd305ca248c28895ff6736dea4ae~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_ab22cd305ca248c28895ff6736dea4ae~mv2.png)
![I see... [第3話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_eb6584c617c64f288137d46b735bb5a3~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_eb6584c617c64f288137d46b735bb5a3~mv2.png)
![I see... [第2話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_7659221388f143eb9c1ab77ecb1266bd~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_7659221388f143eb9c1ab77ecb1266bd~mv2.png)
コメント