不等号 [第3話]

更新日:3 日前

【第3話】渡してもらえませんか
水曜の朝も、ジョアンは7時に来た。
助手席に、茶封筒が置いてあった。
A4が入る大きさで、何も書いていない。
封もしていない。
角が柔らかくなっている。
何度も持ち歩いたものの柔らかさだった。
三好が乗るとき、ジョアンはそれを後ろの席へ移した。
隠した動きではない。
椅子を空けるついでに動かした、という動きだった。
朝はまたフアン・ムイで、昨日と同じものを頼んだ。
2日続けて同じものを頼むと、店の人間が顔を覚える。
午後2時に、ジョアンが席を立った。
「少し出ます。4時には戻ります」
代わりにミスター・タンが来て、工程の説明を続けた。
話が途切れたところで、三好は聞いた。
「ジョアンさんは、水曜はいつもですか」
「ああ、水曜はね」
「何かあるんですか」
「家族の用でしょう。10年近くそうだから、誰も聞かない」
10年近く。
この女は、20代の後半だ。
4時5分前に、ジョアンは戻ってきた。
謝りもしなかったし、説明もしなかった。
椅子に座って、続きの資料を開いた。
三好が気づいたのは、帰りの車に乗ってからだった。
後ろの席に、茶封筒があった。
朝と同じものだった。
角の柔らかさも、封のしかたも同じだった。
持って出て、持って帰ってきたということだ。
渡す相手に会えなかったか、渡さないと決めたか、どちらかだった。
夕方、工場を出る前に、三好は言った。
「今夜、向こうで食べませんか」
ジョアンが顔を上げた。
「向こう、というのは」
「シンガポールです。3日運転してもらってますから、こちらが出します。うちの事務所も向こうなので、経費で落ちます」
ふつうの申し出だった。
買う側が売る側を連れていくのだから、
断る理由のないところに置いた言い方でもあった。
ジョアンは、一拍だけ置いた。
一拍だった。
長い沈黙ではない。
言葉を探したのではなく、何かを計算した長さだった。
「はい」
そう言って、笑った。
出入国の施設は、ホテルから歩いて5分だった。
車は旧市街に置いた。
この時間、橋の車線は動かない。
歩いたほうが速いとジョアンが言った。
施設の中は明るい。
天井に蛍光灯が並び、床は磨いた石で、空港の保安検査に似ている。
違うのは人の数だった。
夜の9時でも、帰る人間と向かう人間が両方いる。
出国の列に並んだ。
ジョアンが先だった。
機械にパスポートを置いた。
音が鳴った。
赤だった。
一瞬、三好は自分の番が来たのかと思った。
思ってから、鳴っているのが前の機械だと分かった。
係官が来た。
画面を見て、短く何か言った。マレー語だった。
タハナン。
ジョアンは反論しなかった。
驚いてもいなかった。
画面を指さして、何かを聞いて、頷いて、列から出た。
月曜の朝に見た女と、同じ動きだった。
同じ動きを、三好はもう一度見ていた。
「三好さんは、行ってください」
ジョアンが言った。
声が小さかった。
この3日で初めて、この女の声が小さかった。
「係の人が、通してくれます。私だけです」
「……あの」
「先に行ってください。後ろがつかえます」
三好は、自分の番の機械にパスポートを置いた。
緑が点いて、扉が開いた。
扉を抜けると、そこはもう出国した側だった。
振り返ると、ガラスの向こうにジョアンが立っていた。
列から外れた場所に、荷物も持たずに立っている。
ガラスは厚い。
声は通らない。
ジョアンは、行ってください、という手の動きをした。
笑っていた。
昼間と同じ顔で笑っていた。
三好は、戻った。
戻るのに手続きが要った。
係官に事情を話して、
通した記録を取り消してもらうのに15分かかった。
その15分のあいだ、三好が考えていたことは一つだけだった。
取引先の人間を検問所に置いて、
自分だけ飯を食いに行く商社の人間がどこにいるか。
それだけだった。
戻った理由は、それで全部だった。
ガラスを出ると、ジョアンがまだ同じ場所に立っていた。
三好を見て、何か言おうとして、やめた。
やめてから、下を向いた。
笑っていなかった。
それを見た瞬間に、三好は分かった。
この女は、いま、まったく別の意味で受け取っている。
訂正はしなかった。
バーは、タマン・マジュ・ジャヤのジャラン・マジュにあった。
看板がない。
ドアの上に「75A」とだけ出ている。
ブザーを押すと、上から誰かが開ける。
ハイイロ・ウサギという。
日本語で灰色の兎だと、ジョアンが言った。
中は狭い。
壁は灰色で、ネオンが1本だけ入っている。
長い大理石のカウンターと、見たことのない瓶の並んだ棚。
音は小さい。
古典的なものを頼んだ。
ウイスキーサワーで、黒いラベルのスコッチに搾ったレモンと砂糖水だけ。
卵白を入れない作り方だった。
入れないほうが酒の角が残る。
この店はそれを分かっていて、わざと残している。
季節の品書きが別にあり、2か月ごとに替わるという。
ジョアンは、何も頼まずに水を飲んだ。
それから、頼んだ。
「強いのをください」
三好は何も聞かなかった。
聞かなかったのは、この女が自分から話すと分かっていたからだ。
入れてもらわないと入れない店に、彼女が自分で連れてきた。
「2年前に、破産しました」
グラスを見たまま、ジョアンはそう言った。
「この国は、3万リンギットの借金で破産になります。100万円くらいです」
「……それで、出られない」
「破産した人は、名簿に載ります。入管の名簿です。載ると、出国が止まります。空も、陸も、船も」
三好は、月曜の朝の男の言葉を思い出した。
向こうが入れないんじゃない。
こっちが出してくれない。
「借金は、何の」
「保証人です」
「誰の」
「兄の」
ジョアンは、酒を半分飲んでから続けた。
兄は車の修理屋をやっていた。
機械を入れるのに銀行から借りた。
保証人の欄に書ける人間が、家族にしかいなかった。
父はもう死んでいて、母は字が書けない。
「だから私が書きました。22のときです」
店は2年で潰れた。
兄は店を畳んで、シンガポールへ渡った。
向こうなら稼げる、毎月送る、と言って出ていった。
「最初の半年は、送ってくれました」
残りは8万リンギット。
兄が払わなくなって、銀行は保証人のところへ来た。
3万で破産になる国で、8万は多すぎた。
22で書いて、2年で潰れて、兄が3年前に行って、2年前に破産した。
この女が20代の後半なら、数字は全部合う。
合ってしまう。
「破産すると、出られないだけじゃないんです」
銀行の口座が使えない。
借り入れができない。
そして、仕事が選べない。
「新しいところに行くと、調べられます。出ます、必ず」
「……ここは」
「ここは、知ってて雇ってくれました」
だから辞められない。
辞めたら、次がない。
三好は、そこで書類の話に戻った。
「あの署名の欄、なぜジョアンさんなんですか」
ジョアンは、グラスを置いた。
「あの紙は、箱の中身を保証する紙です」
「はい」
「紙と中身が合わなかったときに、誰かが責任を取ります。普通は、数えた人です」
「そうです」
「数えた人は、辞めます」
ジョアンは、そこで一度だけ三好を見た。
「辞めて、どこかへ行きます。この街の人は、向こうへ行けば誰も追いません。橋を渡れば、もう届かない」
国境が30分のところにある街では、責任から逃げるのに30分しかかからない。
逃げられる人間の名前を紙に書いても、紙の役に立たない。
「私は、行けません」
「……」
「出られないし、仕事も変えられない。ずっとここにいます」
ジョアンは、もう一度グラスを持った。
「ずっとここにいる人の名前が、いちばん安全なんです」
三好は、何も言えなかった。
言えなかったのは、それがこの3日で聞いたどの数字より、よくできた仕組みだったからだ。
「誰が決めたんですか。それ」
ジョアンは答えなかった。
「水曜は、何をしてるんですか」
「……」
「10年近くそうだと、ミスター・タンが言っていました」
ジョアンの手が、グラスの縁で止まった。
「兄じゃないです」
それだけ言った。
それ以上は、どれだけ待っても出てこなかった。
ジョアンは3杯目を頼んで、半分で置いた。
「全部話しました」
笑っていた。
目は笑っていない。
酔った人間の笑い方でもなかった。
「こんな話、会社の人にもしてません。友達にもです」
「どうして、俺に」
「明日、帰るからです」
三好は、その答えを知っていた。
通りすがりの人間には、人は全部渡す。
渡しても、持っていかれるだけで、どこにも残らないからだ。
それを何度も使ってきた。
使われる側に回ったのは、久しぶりだった。
店を出たのは12時半だった。
車はホテルの前に置いたままだった。
だから二人は、旧市街まで歩いて戻った。
夜のジャラン・トゥルスは暗い。
1階の鉄扉が全部下りていて、
昼にカヤトーストを売っていた店も、閉まると何の店か分からない。
ジョアンは、歩くあいだ一度も喋らなかった。
3日でいちばん長い沈黙だった。
喋ることがなくなった人間の黙り方だった。
ホテルの前で、ジョアンは車に乗らなかった。
「部屋、見てもいいですか」
断る理由なら、いくらでもあった。
相手は売る側の社員で、4日が終われば他人に戻る。
明日はこの工場との最後の日で、
紙の上には値上げの話が残っている。
それに、この女はいま、空になっている。
全部出したあとの人間が
次に何を出そうとするかは、三好にも分かっていた。
止めるのが大人のやることだった。
三好は、断らなかった。
断れば、さっきのガラスの前に戻ることになる。
この女は、三好が戻ったことを、
戻った理由より大きいものとして受け取っている。
それを訂正しないまま帰すほうが、たちが悪い——と、そう考えた。
考えたが、それは言い訳だった。
訂正しないほうが得だから、訂正していない。
それだけのことだった。
部屋は高い階だった。
カーテンを開けたままにしてあったので、入ると正面に橋があった。
夜中でも車のライトが動いている。
ジョアンは、その窓を見なかった。一度も見なかった。
近づいてきたのは、ジョアンのほうだった。
シャツのボタンを、上から順に外した。
肩が広い。
背中に手を回すと、肩甲骨のあいだに厚みがある。
事務の仕事をしている人間の背中ではなかった。
手を取ると、掌が硬かった。
指の付け根に古い皮がある。
「倉庫にいたので」
聞く前に、そう言った。
「書類を書くようになったのは、あとです」
髪をほどくと、顎の線まで落ちた。
匂いがした。
香水ではない。
車と紙の匂いに近い。
一日中その両方の中にいる人間の匂いだった。
胸は小さくない。
先の色が濃い。
腹に手を置くと、呼吸で上がる幅が大きかった。
声の大きい人間は、息も大きい。
声は抑えなかった。
昼間と同じ音量で、同じ声だった。
それがかえって応えた。
この女は昼も夜も同じ声で生きていて、
ただ一つの話題のときだけ黙る。
途中で一度、三好の顔を両手で挟んだ。
挟んで、しばらく見ていた。
確かめる見方でも、覚えようとする見方でもなかった。
気づいたら、2時を過ぎていた。
暗い部屋で、ジョアンが言った。
「三好さん」
「はい」
「明日、帰りますよね」
「夕方の便です」
「空港は、向こうですか」
「チャンギです」
橋を渡って、島へ行って、飛行機に乗る。
来たときと逆の順番で帰るだけだった。
ジョアンは、起き上がった。
裸のまま、椅子に掛けてあった鞄から、何かを出した。
茶封筒だった。
角が柔らかい。
朝、助手席にあったものだった。
4時に持って帰ってきたものだった。
「渡してもらえませんか」
【次話予告】
4日目の朝、茶封筒は鞄の中にあった。
夕方には橋を渡る。渡れば、もう戻らない。
ジョアンは、7時に来なかった。
Haiiro Usagi(ハイイロ・ウサギ)
75A, Jalan Maju, Taman Maju Jaya
商店が並んだ一角にある、看板のないバー。ドアの上に「75A」とだけ出ていて、ブザーを押すと上から開けてもらう。日本語の「灰色の兎」から名を取っている。
中は狭く、壁は灰色でネオンが1本。長い大理石のカウンターと、見慣れない瓶の並んだ棚。古典的なものをきちんと出す店で、ウイスキーサワーは卵白を入れずに酒の角を残す。季節の品書きが別にあり、2か月ごとに替わる。19時から深夜1時、金土は2時まで、日曜休み。
ジョホールバルCIQ(出入国・税関・検疫施設)
Jalan Tun Abdul Razak, Bandar Johor Bahru
JBセントラルに隣接する国境の施設。アマリからは歩いて5分で、旧市街のホテルに泊まるなら車より歩きのほうが速い時間帯が多い。
徒歩の列と車の車線は分かれていて、夜でも帰る人間と向かう人間が両方いる。自動ゲートの機械にパスポートを置くだけだが、出国を止められている人間は、ここで初めてそれを知ることがある。
マレーシアの出国制限
破産者、学生ローンの滞納者、税の未納者などは、入管の名簿に載ると出国できなくなる。2011年以降に載った人数は82万人を超え、最大の層が破産者で約20万人。
破産は3万リンギット(約100万円)の債務で成立する。制限は空路・陸路・海路を問わないので、シンガポールへ通う人間にとっては生活そのものが止まる。入管のオンラインシステムで自分の状態を確認できるが、知らないままゲートで止められる人のほうが多い。


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