不等号 [第2話]

更新日:3 日前

【第2話】来ませんでした
朝7時、ホテルの前にジョアンは来ていた。
昨日と同じ車で、昨日と同じ顔だった。
夜中の12時に橋のほうへ走っていった車と、同じ車だった。
三好はそれを言わなかった。
言えば、この女は何か答える。
答えが出てくる前に、もう少し見ておきたかった。
「朝ごはん、食べましたか」
「まだです」
「じゃあ、下で食べましょう。ホテルのは高いので」
ジョアンは、通りの先を指さした。
ホテルの出口から100メートルも行かないところに、戦前の2階建てが並んでいる。
朝からもう人が出ていた。
「ジャラン・トゥルスは、朝が本番なので」
店は同じ通りの131番地にあった。
フアン・ムイという。
1946年からここにある海南式のコーヒー店で、
1階は冷房が入っていて、2階は扇風機しかない。
ジョアンは2階に上がった。
「下のほうが涼しいですよ」
「上は、通りが見えます」
窓から、古い商店の瓦屋根が並んで見えた。
8時半で、下の階はもう埋まりかけていた。
カヤトーストが来た。
炭で焼いたパンに、ココナッツと卵と砂糖を煮詰めたものを塗って、冷たいバターを挟んである。
バターが溶けきらないうちに食べる。
塗ってから客に出すまでが短い店ほど、信用できる。
半熟卵が小皿で来た。
殻を割って、醤油と白胡椒を落として、そのまま飲む。
この国では卵は飲むものだ。
コーヒーは濃かった。
豆をマーガリンと砂糖で炒ってあるので、焦げた甘さが残る。
そこに練乳が沈んでいる。
1杯3リンギット、100円ほど。
この日は工場の倉庫を見た。
ラインはもう昨日見ている。
部品が組み上がったあと、
どう出ていくかのほうが、三好には大事だった。
ジョホールバルは港の町だ。
作ったものは船に乗る。
ジョホール港とタンジュン・ランサット港が、
工業地帯の端にそのまま付いている。
工場の門を出たコンテナは、30分で船の横に着く。
倉庫は天井が高かった。
同じ大きさの箱が、同じ高さまで積んである。
箱には番号が振ってあって、
その番号が紙と合っているかどうかで、この工場の程度が分かる。
合っていた。
棚の端から3つ抜いて数えて、3つとも合っていた。
「全部見ますか」
「いえ、もういいです」
「早いですね」
「3つ合えば、だいたい合ってます」
ジョアンは笑って、紙の束を抱え直した。
昼前に、その紙を1枚渡された。
船積みの書類だった。
来月出る分の、箱の数と重さと、どの船に載るかが書いてある。
三好は買う側なので、この紙は必ず受け取る。
受け取って、数字を見て、署名の欄を見る。
順番はいつも同じだ。
署名の欄に、知らない名前があった。
LOW SHU QI
三好は、顔を上げた。
「これは、どなたですか」
「私です」
ジョアンは、何でもないことのように言った。
「ジョアンさんじゃないんですか」
「ジョアンは英語の名前です。会社の中とか、名刺とか、そういうところで使います」
紙を指でなぞって、順番に言った。
「LOWが姓です。父の姓。SHU QIが名前。中華系はこの順番で書きます」
「家ではどっちで呼ばれるんですか」
「シューチーです」
言われてみれば、名刺にもそう印刷してあった。
JOANNE LOW SHU QI。
三好は最初の単語しか読んでいなかった。
それで一度、納得した。
納得して、紙を鞄にしまって、午後の会議に出た。
引っかかりが戻ってきたのは、会議の途中だった。
船積みの書類は、営業の人間が署名する紙ではない。
箱の数と重さと、中身が書いてあるものと合っているかを保証する紙だ。
だから普通は物流か、品質保証か、工場長が書く。
数えた人間が書く、というのがこの紙の意味で、
数えていない人間の名前が入っていると、
何かあったときに誰も責任を負えなくなる。
三好はこの手の紙を、何百枚と見てきた。
営業の窓口の名前が署名欄に入っているのを見たのは、これが初めてだった。
昼のあと、不良の記録も見せてもらった。
不良というのは、寸法が違う、傷がある、といった規格外の品のことだ。
出たら数えて記録に残す。
記録は2行で1組になっている。
上の行が、その月に出た不良の数。
下の行が、そのうち手直しして出荷に戻した数。
数字自体は悪くなかった。
悪くないが、下の行が上の行より大きい月が2回あった。
出た数より、直した数のほうが多い。
10個しか割れていないものを、11個直すことはできない。
「これ、どっちを先に書くんですか」
「出たほうが先です」
「じゃあ、この2か月は」
「……確認します」
ジョアンはメモを取った。
取り方が速かった。
速いのは、前にも同じことを聞かれたことがある人間の速さだった。
午後の会議で、向こうから値上げの話が出た。
樹脂と、船の運賃が上がっているという。数字は3.8%。
根拠の紙は出てきた。
出てきたが、運賃のところだけ出どころが書いていない。
「この運賃は、どこの数字ですか」
ミスター・タンが答える前に、ジョアンが答えた。
「うちが実際に払っている額です。明細を出します」
出すと言う人間は、だいたい出す。
出さない人間は、出すとも言わない。
会議のあと、聞いてみた。
「あの書類、ジョアンさんが数えてるんですか」
「いえ、数えるのは倉庫の人です」
「じゃあ、どうして」
ジョアンは、少し考えてから答えた。
「前からそうなので」
それ以上は言わなかった。
嘘をついている顔ではなかった。
自分でも理由を知らない人間の顔だった。
夕方、若い社員が冗談を言った。
三好にも分かるように、わざわざ英語で言った。
「ジョアンも早くシンガポール行けばいいのに。日本語できるんだから、3倍どころじゃないですよ」
部屋が、一瞬だけ静かになった。
ミスター・タンが咳をして、別の話を始めた。
ジョアンは笑っていた。
笑っていたが、目が動かなかった。
笑うと目尻が下がる女が、そのときだけ下がらなかった。
若い社員は、何も気づいていなかった。
悪気がないどころか、褒めたつもりだった。
だから余計に悪かった。
夜の店は、テブラウという地区にあった。
エデン・バイ・ウィザーズという。
倉庫をそのまま使った店で、入ると中に木が生えている。
鉢ではない。
床を抜いて植えてある。
天井が高いので、上の枝まで照明が届かない。
鳥の声がしていて、しばらく本物だと思っていた。
料理は、西洋とアジアの両方から来ている。
どちらでもない、という言い方が正しい。
皿の上で混ざっているのではなく、
作る順番のどこかで混ざっている。
看板はソフトシェルクラブのバーガーだった。
殻ごと食べられる蟹を揚げて、塩漬け卵のソースで和えて、パンに挟んである。
手で持つと重い。
蟹が厚いからではなく、ソースが重い。
塩漬け卵というのは、慣れないと最初の一口でくどいと思う。
二口目で、それが旨みだと分かる。
汁が指まで垂れる。
この店はそれを前提にして、布のおしぼりを先に置く。
牛のトーストも頼んだ。
薄く焼いたパンに、煮込んだ牛を挟んで、チーズを溶かして押し潰してある。
断面を見ると層になっていて、どこを噛んでも同じ味にならない。
酒はウイスキーのソーダ割りにした。
ジョアンはビールを1本だけ飲んで、あとは水にした。
「明日、運転があるので」
1人あたり120リンギット、4,000円ほど。
この街の物価からすると高い。
高いが、天井の高さと木の分は払う価値がある。
日本から来た客を連れていって、外さない店が、この街にはそう多くない。
ジョアンはよく喋った。
昨日と同じ調子で、学校の話と、父親の話と、ヤシ油の値段の話をした。
父親は長距離の運転手で、この国の端から端まで行ったという。
「兄は、運転手にならなかったんですか」
聞いてから、昨日と同じ質問をしていることに気づいた。
ジョアンは、グラスを置いた。
「兄は、向こうです」
「シンガポール」
「はい」
「いつから」
「……3年前から」
3年。
三好は何も言わなかった。
言わなかったのは、その3年のあいだに何があったかを、
この女が一度も言わなかったからだ。
店を出たのは10時前だった。
帰りの車は空いていた。
この時間の市内は、工業地帯から戻る車がもう終わっている。
ホテルの車寄せに着いて、三好はエンジンが切れるのを待った。
待ってから、言った。
「昨日の夜、橋のほうへ行きましたよね」
ジョアンは、驚かなかった。
ハンドルに手を置いたまま、前を見ていた。
「見えましたか」
「部屋から、正面なので」
「……そうですね」
それから、小さく笑った。
昼間の笑い方ではなかった。
「迎えに行きました」
迎えに。
この街で、向こう側から来る人間を、こちら側で待つ。
「誰をですか」
ジョアンは答えなかった。
答えないかわりに、別のことを言った。
「来ませんでした」
三好は、それ以上聞かなかった。
聞かなかったのは、聞いても同じ答えが返ってくると分かったからだ。
車を降りて、自動ドアをくぐった。
後ろで窓が下りる音がした。
「三好さん」
振り返った。
「明日も、7時に来ます」
「はい」
「——明日は水曜なので、午後は少し出ます」
車が出ていった。
部屋に上がって、カーテンを開けた。
橋はいつもどおり光っていた。
あの上を、いまも何万人かが渡っている。
来ませんでした、と彼女は言った。
毎週、迎えに行っているということだ。
毎週行って、来ない人間を待っているということでもある。
この街の人間は、全員が向こうへ行く。
一人だけ、行かずに待っている人間がいる。
待っているほうは、迎えに行くとは言わない。
迎えに行く、というのは、
自分も向こうへ行ける人間の言い方だ。
【次話予告】
水曜の午後、ジョアンは2時間いなくなった。
戻ってきたとき、何も言わなかった。
その夜、三好は彼女とシンガポール側へ渡ろうとする。
ゲートで止まったのは、2人のうちの片方だった。
Eden by Wizards(エデン・バイ・ウィザーズ)
No.19, Jalan Tiong Emas, Kawasan Perindustrian Tiong Nam, Tebrau 3
倉庫を改装した店で、店内に本物の木が植わっている。天井が高く、鳥の声が流れていて、最初は本物だと思う。クアラルンプールのウィザーズと同系列。毎日10時から22時。
看板はソフトシェルクラブのバーガー(塩漬け卵のソース)と、煮込んだ牛のトースト。1人120リンギット前後。週末は予約を入れたほうがいい。日本から来た客を連れていって外さない店は、この街にそう多くない。
Restoran Hua Mui(フアン・ムイ)
131, Jalan Trus, Bandar Johor Bahru
アマリの前の通りに1946年からある海南式のコーヒー店。1階は冷房、2階は扇風機だけで、通りの瓦屋根が見えるぶん2階のほうがいい。8時30分から17時、祝日休み。
炭焼きのカヤトーストと半熟卵、コーヒーで1人6リンギットから。名物は海南式のフライドチキンチョップ。土曜の朝は9時半で20分待ちになる。
同じ通りの124番地にはサンデー・モーニング・コーヒー・ショップという2階の自家焙煎店もあり、水出しの黒が16リンギットから。木曜から火曜の9時から17時。
ジョホール港とタンジュン・ランサット港
パシルグダンの工業地帯の端にある2つの港。ジョホール港は1977年開港で、この国の資源と農産品の積み出しの要になっている。
工場の門を出たコンテナが30分で船の横に着く。見学で行く場所ではないが、この街の工場が「作ってから出るまで」をどれだけ短くしているかは、この距離を知ると分かる。


![不等号 [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_3a27938ab6854607be3f2bfbc5bd812b~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_3a27938ab6854607be3f2bfbc5bd812b~mv2.png)
![不等号 [第3話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_d7817de0a02b4d8a96e23dae4a50f5aa~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_d7817de0a02b4d8a96e23dae4a50f5aa~mv2.png)
![不等号 [第1話 / 全4話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_6eea6550ca8b4ed38f9ab75896ba31ee~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_6eea6550ca8b4ed38f9ab75896ba31ee~mv2.png)
コメント