不等号 [最終話]


【最終話】不等号
朝7時、ジョアンは来なかった。
ロビーで15分待って、電話をかけた。
呼び出し音は鳴った。6回鳴って、切れた。
もう一度かけると、今度は2回で切れた。
切られた、という切れ方だった。
タクシーで工場へ行った。
パシルグダン・ハイウェイは朝のほうが混んでいる。
4車線のうち2車線をコンテナ車が埋めていて、乗用車はその隙間を縫っていく。
路肩がない。
止まれる場所がない道だった。
ジョアンがこの道で追い越しをかけながら言ったことを、三好は思い出した。
この道、事故が多いんです。
工場に着くと、ミスター・タンが出てきた。
「ジョアンは今日、休みです」
「体調ですか」
「さあ。連絡は来ました」
それ以上は言わなかった。
聞いても出てこない種類の言わなさだった。
最後の会議は10時からだった。
向こうは3.8%の値上げで来た。
樹脂と運賃だと言う。
紙は昨日と同じものが出てきた。
三好の手元には、2つあった。
1つは運賃の明細だ。
昨日ジョアンが「出します」と言って、今朝メールで届いていた。
読むと、上がっているのは確かだった。
ただし上がっているのは3航路のうち1つで、全体に掛けるには無理がある。
もう1つは、不良の記録だった。
出た数より、直した数が多い月が2回ある。
これを会議の机に出せば、値上げの話はその場で消える。
相手は説明できない。
説明できない紙を出された側は、値段の話どころではなくなる。
そして、その紙の署名欄には、ジョアンの名前が入っている。
三好は、紙の端に鉛筆で不等号を書いた。
数字を2つ並べたとき、商社の人間は癖でこれを書く。
どちらが大きいかを、その場で目に見える形にしておくためだ。
書いてから、向きを見た。
出た数と、直した数。
開いた側が、直した数のほうを向いていた。
紙の上で、起きてはいけない向きだった。
三好は、その不等号を消した。
消して、紙を伏せた。
会議には、運賃の明細だけを出した。
「上がっているのは、この1航路だけですね」
「……はい」
「ではこの比率で掛け直してください」
1.5%で決まった。
3.8%を1.5%まで戻したのだから、持って帰る数字としては悪くない。
東京は文句を言わない。
不良の記録のことは、一度も口に出さなかった。
かばったのか、面倒を避けただけなのか、三好には分からなかった。
分からないまま、議事録に署名した。
その紙の署名欄は、ミスター・タンの名前だった。
会議のあと、見送りの立ち話になった。
「ジョアンは、よくやってくれました」
三好が言うと、ミスター・タンは頷いた。
「あれは、辞めません」
「……そうですか」
「辞められない、というほうが正しいですが」
知っていた。
この工場は、知ったうえで雇っていた。
三好は、聞いてみた。
「水曜の午後は、何なんですか」
「お父さんですよ」
あっさり出てきた。
隠す話だと思っていないから、あっさり出てくる。
「17号線でね。10年前です。コンテナに巻き込まれた」
「……」
「場所が決まってるんです。毎週、行ってる」
三好は、何も言わなかった。
封筒のことを考えていた。
持って出て、持って帰ってきたと思っていた。
水曜の用事のために持ち出したのだと思っていた。
違った。
あの封筒は、いつも車にある。
父のところへ行く日も、工場へ行く日も、どこへ行く日も。
いつ兄が現れてもいいように、ずっと車の中にある。
また読み違えていた。
この4日で、何度目かも分からなかった。
昼は市内に戻って、1人で食べた。
ジャラン・ウォン・アー・フックの74番地に、カム・ロンという店がある。
1983年から1品しか出していない。
土鍋のカレー魚頭だ。
他のものは何もない。
鍋が来る。
煮えたままの土鍋に、魚の頭が丸ごと沈んでいて、
その周りにキャベツと豆と、オクラと、揚げた湯葉が入っている。
赤い。見た目ほど辛くはない。
ココナッツミルクと香辛料で、辛さが丸められている。
湯葉がいい。
揚げたものが汁を吸って、噛むと中から汁が出る。
この店で最初に無くなるのは魚ではなく湯葉だと、周りを見ていると分かる。
魚の頰を箸で外した。
骨の間の身がいちばん甘い。
鍋ものの魚の頭は、頰と目の下だけ食べて帰る人間と、
全部さらう人間に分かれる。
中鍋で46リンギット、1,500円ほど。
火曜から日曜の8時から16時まで。
売り切れたら終わる。
4日のうち3日は、向かいに誰かが座っていた。
今日はいなかった。
ホテルで荷物をまとめて、チェックアウトした。
鞄に茶封筒を入れた。
昨日の夜に渡されたもので、宛先と住所が、別の紙に書いて挟んであった。
シンガポールの北のほうの、工業地帯の住所だった。
名前はローマ字で書いてあった。
姓がジョアンと同じだった。
渡してもらえませんか、と彼女は言った。
三好は中身を聞かなかった。
聞けば断る理由ができるからだった。
ただ、1つだけ聞いていた。
「開けていいですか」
「はい。封はしてません」
JBセントラルという駅がある。
国境の出入国施設にそのまま接していて、
泊まっていたホテルからは歩いて5分で着く。
旧市街に泊まる出張者は、最後にここへ来る。
出国の列に並んだ。
一昨日と同じ列だった。
一昨日は、2人で並んでいた。
機械にパスポートを置いた。
緑が点いた。扉が開いた。
一昨日、隣の同じ機械が赤を出した。
機械は2台とも同じ型で、同じ速さで、同じ音を出す。
違ったのは、出た色だけだった。
扉の向こうで、三好は一度だけ振り返った。
ガラスの手前に、ジョアンが立っていた場所がある。
そこには誰もいなかった。
誰もいない場所は、ただの床だった。
JBセントラルからは、列車が出ている。
ウッドランズまで5分。
1日31往復で、1本に320人乗る。
橋の上で2時間座るか、この5分に乗るかの差を、
この街の人間は毎日計算している。
5分で、三好は向こう岸にいた。
住所の場所は、ウッドランズから地下鉄とバスで40分だった。
同じ形の倉庫が同じ間隔で並んでいて、
門にそれぞれ違う会社の名前が出ている。
働いている人間の半分は、この国の人間ではない。
朝に国境を渡ってきて、夜に戻る人間たちだった。
同じ仕事をして、こちら側のほうが3倍もらえる。
この区画は、不等号の開いているほうだった。
事務所の受付で紙を見せた。
受付の女が奥に聞きに行って、戻ってきて、英語で言った。
「その人は、半年前に辞めました」
「行き先は分かりますか」
「分かりません。こういう人は、だいたい分かりません」
こういう人、という言い方だった。
辞めて、次の会社へ行って、また辞める。
この区画では、それが普通の働き方なのだろう。
「ここに来る前は、どこにいたか分かりますか」
「それも、分かりません」
それで終わりだった。
15分もかからなかった。
3年かけて渡せなかったものが、
渡せない理由としては、あっけなさすぎた。
彼女が毎週橋のたもとで待っていた相手は、
半年前からもうその会社にいない。
彼女がそれを知っているのかどうかも、三好には分からなかった。
チャンギで、封筒を開けた。
出発ロビーの端の椅子で、中のものを膝に出した。
分厚い。紙の束だった。
銀行の督促状が何通も入っていた。
日付が1年ぶん並んでいる。
裁判所の決定の写しがあった。
マレー語と英語が併記されていて、金額の欄だけが読めた。
入管の名簿に載ったことを知らせる紙があった。
いちばん下に、写真が1枚あった。
男が車の前に立っている。
痩せていて、背が低い。
左の腕だけが右より濃い。
運転席の窓から日が当たる側だけが焼ける。
長距離を走る人間の腕の焼け方だった。
車は古い型のバンで、ナンバーの数字が半分欠けている。
男の後ろに、女が1人写り込んでいた。
顔が小さくて、肩幅がある。
ジョアンに似ていた。
似ているというより、同じ顔が10歳若いだけだった。
写真の裏に、鉛筆で日付が書いてあった。
10年前の、水曜日だった。
三好は、紙を元の順番に戻した。
この封筒は、誰かを助ける紙ではなかった。
兄がこれを受け取っても、保証人の判は消えない。
一度書いた名前は消えない。
銀行は彼女を見る。
名簿からも外れない。
彼女はそれを知っていた。
知っていて、3年、これを渡しに行っていた。
助けてほしいのではなかった。
見てほしかっただけだ。
機内で、三好は寝なかった。
成田に着いて、月曜に出社して、稟議を上げた。
1.5%は通った。
4日で3.8%を1.5%に戻したことを、部長は評価した。
誰も、不良の記録のことは聞かなかった。
封筒は、火曜に送った。
工場の住所に、彼女の名前で送った。
何も書き添えなかった。
書く言葉がなかった。
本人に届いたかどうかは、分からない。
2か月後、その工場から書類が来た。
船積みの書類だった。
来月出る分の、箱の数と重さと、どの船に載るか。
三好は数字を見て、署名の欄を見た。
順番はいつも同じだ。
署名の欄に、知らない名前があった。
LOW SHU QI ではなかった。
問い合わせれば、分かる。
メールを1本出せばいい。
先方は答える。
辞めたのか、異動したのか、別の理由か。
三好は、出さなかった。
出さなかった理由を、自分で考えてみた。
知っても何もできない、というのが1つ。
もう1つは、知ってしまうと、何かしなければならなくなる、というものだった。
後のほうが本当だった。
同じ週に、記事を1つ読んだ。
ジョホールバルとシンガポールを結ぶ鉄道が、年内に動き出すという。
橋の上を5分。朝の2時間が5分になる。
あの街の人間が、何年も待っていた話だった。
写真が付いていた。
新しい駅の、まだ誰も通っていない自動ゲートが並んでいる。
出た数より、直した数が多い。
紙の上では、そういうことが起きる。
起きた月は2回あって、三好はそれを見つけて、印をつけて、消した。
その記号を、三好はもう一度書いてみた。
今度は紙ではなく、頭の中だった。
渡る人間と、渡れない人間。
43万人と、一人。
あちら側の給料と、こちら側の給料。
5分と、2時間。
向きは、どれも決まっている。
決まっているから、記号が書ける。
どちらの向きも、三好には読めた。
読めたところで、不等号は向きを変えない。
<完>
Kam Long Ah Zai Curry Fish Head(カム・ロン)
74, Jalan Wong Ah Fook, Bandar Johor Bahru
1983年から土鍋のカレー魚頭1品だけでやっている店。他には何もない。火曜から日曜の8時から16時で、売り切れたら終わる。週末は早い。
魚の頭を煮た鍋に、キャベツ、豆、オクラ、揚げた湯葉が入る。赤いわりに辛くなく、ココナッツミルクで丸めてある。汁を吸った湯葉が先に無くなる。中鍋で46リンギット、小鍋なら32リンギットから。JBシティスクエアから徒歩5分。
JBセントラルとテブラウ・シャトル
国境の出入国施設に隣接する駅。ここからウッドランズまで、列車で5分。1日31往復、1本320人で、座席は事前予約。
橋の上で2時間座るか、この5分に乗るか。朝夕に渡るなら、予約が取れる限りこちらが正解になる。アマリなど旧市街のホテルからは歩いて5分で着く。
RTSリンク(ジョホールバル・シンガポール高速輸送システム)
JBセントラル隣のブキ・チャガーと、シンガポールのウッドランズ北を結ぶ鉄道。2026年末の開業予定で、所要5分。
開業時で1日4万人、将来は14万人が使う見込みとされ、現在のコーズウェイ交通量の3〜4割にあたる。これが動き出せば「橋の渋滞」という言葉はこの街から消える。消えても渡れない人がいることは、たぶん記事にはならない。


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