たぶん、そういうことだと思っている [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 3月30日
- 読了時間: 3分
更新日:3月30日

【第4話】4回目は来なかった
ホテルの部屋を出る前に、アオイが言った。
「Mさんって、こういうこと慣れてますよね」
俺は少し笑って、「そうでもない」と答えた。
「絶対嘘だ」
彼女も笑った。えくぼが出た。
「楽しかった」
アオイがドアノブに手をかけながら言った。過去形だった。
その過去形が、少し刺さった。現在進行形じゃない。もう終わったこととして、きちんと括っている。23か24の女が、そういう括り方をする。俺より大人かもしれないと思った瞬間だった。
「俺も」
それだけ返した。
ドアが閉まった。
部屋に一人残って、俺はまた天井を見た。シーツにまだアオイの匂いが残っていた。さっきまでいた人間の気配というのは、消えるのに少し時間がかかる。
シャワーを浴びて、スーツに着替えた。コーヒーを頼んで、資料を開いた。11時からの打ち合わせに向けて、頭を切り替えた。
切り替えられた。
これが出張の現実だ。仕事で来ている。仕事に戻る。それだけのことだ。感傷を引きずるほど、俺は若くない。そう思いながら、シーツを一度だけ見た。
それだけだ。
帰国してから、アオイとは3回会った。
1回目は都内のレストラン。2回目は彼女の最寄り駅に近い居酒屋。3回目は俺のマンション。どれも悪くなかった。アオイは会うたびに少し打ち解けて、3回目には機内で見せた警戒心がほぼ消えていた。
4回目は来なかった。
アオイから最後に来たLINEは「ちょっと整理したいことがあって」という一行だった。
俺は「わかった」とだけ返した。
追わなかった。追う気にならなかった、というより、追うべき場面じゃないと思った。「整理したいことがある」と自分の言葉で書いた女を、こちらから引き止めても意味がない。彼女の中で何かが動いた。それはこちらにはどうにもできない何かだ。
それ以上は何もなかった。
未練がないといえば嘘になる。3回目の夜、マンションを出るときに振り返ったアオイの顔を、俺はまだ覚えている。あのときの表情は、何かを決めかけていた顔だったのかもしれない。今になって思えば、の話だが。
ただ、それ以上でもなかった。
あの機内で、彼女が「たぶん」と言った瞬間のことは、まだ覚えている。窓から差し込んでいた光の角度まで、妙にはっきりと。川沿いで「知らない場所の夜みたいなの」と言ったときの横顔も。翌朝、コーヒーを受け取りながら「よく眠れた」と言ったときの、飾りのない声も。
そして、過去形で「楽しかった」と言い切ったときの、あのえくぼも。
全部、覚えている。
出張というのは不思議なものだ、と俺は最初に書いた。
日常の外に出ると、人は少し違う顔を持つ。アオイもそうだったかもしれないし、俺もそうだったかもしれない。どちらが本当の顔かなんて、問う必要はないと思っている。
どちらも本当だ。
ただ、場所が違っただけの話だ。
そして、その場所にはもう、戻れない。
戻れないから、覚えている。
たぶん、そういうことだと思っている。
<完>




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初めまして。
楽しく拝読しました。
ちょっと後ろ髪が惹かれるくらいの話の長さがちょうどいいですね。
次回作も期待しています。