彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 4月11日
- 読了時間: 4分
更新日:4月13日

第2話 「Tichuca、46階」
エレベーターを降りると、視界が一気に広がった。
Tichuca Rooftop Bar。
46階のオープンエア。スクンビットの夜景が、360度広がっていた。
BTSの線路が光の帯になって南北に走っている。
バンコクのビル群が、霞みを帯びた夜空の下に広がっていた。
東京の夜景とは質が違う。東京は整然としている。
バンコクは、整然とした部分と雑然とした部分が混在していて、その境目が夜になるとわからなくなる。
ライトアップされたビルの隙間に、薄暗い路地が続いている。
その対比が、バンコクの夜を面白くしている。
席に案内された。テラス席の端。二人掛けのテーブルだった。
「どうぞ」と俺が言うと、吉田ユイは少し迷ってから座った。
一人で来る予定だったんだろう。
それが、エントランスで俺と鉢合わせた。
その状況を、彼女はまだ整理できていない。
そういう顔をしていた。でも断ろうとはしていなかった。
ひとりで夜景の前でグラスを持つよりも、見知らぬ日本人と並ぶ方を選んだ。
それが何を意味するかは、まだわからない。
メニューを開いた。
シグネチャーカクテルの「Tichuca Sling」を頼んだ。480バーツ。日本円で2000円ほど。
ジン・ベースで、パッションフルーツとリチーを使ったカクテルだ。
タイのフルーツをカクテルに落とし込んで、南国の甘さを残しながら、後味はすっきりとした仕上がりになっている。
バンコクのルーフトップバーで飲むべき一杯だ。
ここに来たら、これ以外を頼む理由がない。
「何にしますか」と俺がメニューを渡すと、ユイはしばらく悩んだ。
「同じのでいいですか」
「Tichuca Sling、2つ」とウェイターに伝えた。
食事もひとつ頼んだ。
「トムカーガイのビシソワーズ」、550バーツ。
タイのトムカーガイ、つまりガランガルとレモングラスを効かせたチキンのスープを、フレンチのビシソワーズに仕立てた一品だ。
ジャガイモのとろみが、スパイスの鋭さを包み込む。
一口目は明らかにタイ料理の香りがして、飲み込むとフランス料理の余韻が残る。
タイ料理とフランス料理の境界を、丁寧に揺さぶっている一皿だった。
こういう料理は、バンコクでしかない。
「お仕事ですか」とユイが聞いた。
「出張。明日から商談が始まります」
「そうですか。何の仕事ですか」
「商社。自動車の部品関係です。タイのメーカーと取引があって」
「バンコクには慣れてますか」
「4回目ですね。あなたは?」
ユイは少し間を置いた。
「初めてです」
初めて。一人で。Airbnb。白いブラウスとワイドパンツ。
どこか旅慣れた雰囲気はあるが、その目の奥にある何かが、まだ定まっていない。
観光旅行ではない。でも、仕事でもない。
何かから離れるために来た、という匂いがした。
「旅行?」
「そうです。少し長めの」
「どのくらい?」
「まだ決めてないです」
まだ決めていない旅行。
それが何を意味するか、俺には見えてきた。
逃げてきたのか、追いかけてきたのか。どちらかだ。
帰る場所と帰る理由を、今は持っていない。
そういう人間の顔をしていた。
Tichuca Slingが来た。
グラスの縁に、ドライフルーツが一片。
琥珀色のカクテルが、夜景の光を受けて少し輝いた。
「乾杯しましょうか」と俺が言うと、ユイは少し笑ってグラスを持ち上げた。
「バンコクに」
「バンコクに」
一口飲んだ。パッションフルーツの香りが鼻を抜けた。甘くて、でも重くない。
夜景を眺めながら、俺はあまり話しかけなかった。
ユイも、最初は話すことを探しているようだったが、しばらくすると黙って夜景を見ていた。
その沈黙が、不快ではなかった。
バンコクの夜景を前にして、二人で黙って酒を飲む。
それだけで、何かが自然に積み上がっていく感じがした。
押し付けない時間というのは、こういうものだ。
「会社、辞めてきたんです」
唐突に、ユイが言った。
「そうですか」
俺は驚かなかった。驚いたように見せなかった。
「彼氏とも別れて。ほぼ同時期に。だから、少し旅に出てみようかなって」
「バンコクを選んだ理由は」
「なんとなくです。東南アジアは初めてで、でも東南アジアに行きたいなと思って。調べてたらバンコクが出てきて」
なんとなく、という言葉を彼女は使った。
明確な理由がない選択というのは、たいてい理由がないわけではない。
言語化できていないだけで、何かが彼女をバンコクに引き寄せた。
それが何かを、俺はまだ聞かない。聞く必要はない。
今はここにいる事実があれば、それで十分だ。
「バンコク、いいですよ」
「そうですか」
「慣れたら、もっと面白くなる」
「慣れるほどいるつもりはなかったんですけど」
ユイがそう言ってから、少し笑った。グラスを両手で持って、夜景を見た。
「でも、延ばせるかな」
その言葉が、会話の中に静かに落ちた。
俺はすぐに返さなかった。
Tichuca Slingの残りを飲んだ。
バンコクの夜は、まだ長い。


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