彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 4月10日
- 読了時間: 4分
更新日:4月13日

第1話 「T-ONEのセキュリティ」
バンコクに来るのは、これで4回目だった。
スクンビットはいつも人が多い。
BTS沿いのこのエリアは、昼も夜も温度が変わらない。
喧噪は変わらない。変わるのは、やって来る人間の顔つきくらいだ。
昼は働いている顔。夜は何かを求めている顔。
その境界が、バンコクでは特に曖昧に見える。
夜になっても昼の顔をしている人間がいる。
昼のうちから夜の顔をしている人間もいる。
そのへんが、東京とは根本的に違う。
東京は昼と夜の切り替えが明確で、どちらの顔をすべきか、誰もが心得ている。
バンコクはそのルールがゆるい。
それが、この街を面白くしていると同時に、危うくもしている。
ホテルはスクンビット通り沿いのHotel Nikko Bangkokにした。
去年の出張で初めて使ってみて、悪くなかった。
ロビーの作りが日系ビジネスホテルにしては広い。
スタッフの対応が丁寧で、立地がBTSアソーク駅から徒歩圏内。
商談の前日に着いて、翌朝から動ける。
そういう使い方にちょうどいいホテルだ。
チェックインを済ませると、部屋は22階だった。
窓からスクンビット通りが見えた。
車の流れが、蛇のように続いていた。
渋滞している車の間を、バイクが縫うように走っていく。
バンコクの昼の風景だ。
荷物を置いて、シャワーを浴びた。スーツに着替えた。
今日の夜は、以前から気になっていたTichuca Rooftop Barに行くつもりでいた。
スクンビット通りから少し入ったT-ONE BUILDINGの46階。
タイ人の間でも評判のルーフトップバーで、2日前に予約を入れておいた。
バンコクに来るたびに行く場所というのが決まってくる。
馴染みの食堂、馴染みの道、馴染みの景色。
でもたまには新しい場所に足を踏み入れた方がいい。
同じ場所に通い続けると、ここがどんな街かを忘れてしまう。
ロビーを出て、T-ONE BUILDINGに向かった。
徒歩で5分ほどだった。
夕方の風が、スクンビット通りをゆっくり流れていた。
屋台の匂いが、風に混じって漂ってきた。
揚げ物の油と、レモングラスの香り。バンコクの夕方の匂いだ。
1階のエントランスに着くと、警備員が二人いた。
セキュリティカウンターがあって、入館証を確認する仕組みになっている。
タイ人の警備員は、英語よりタイ語の方が断然話しやすいという顔をしていた。
俺は予約名を言おうとした。
英語で「Tichuca、reservation」と言うと、警備員がタイ語で何か返してきた。
意味がわからない。
もう一度「Tichuca Rooftop Bar、reservation、Miyoshi」と言うと、警備員が首を横に振った。
名簿らしき書類を確認している。
こちらの名前が見つからないのか、手続きが違うのか。どちらかわからなかった。
そのとき、後ろから声がした。
「あの、すみません。私も同じ状況で。英語で話しかけても、タイ語で返ってきてしまって」
振り返ると、女が立っていた。
白いブラウスに、淡いベージュのワイドパンツ。スニーカーは白。
荷物はショルダーバッグひとつ。
観光客ではなく、旅慣れた女の格好だった。
顔立ちは日本人だ。目が少し大きくて、鼻筋が通っている。
年齢は26か27。それくらいだと思った。
困っている表情をしていたが、焦りはなかった。
自分で何とかしようとして、でも言葉が通じなくて、ひとまず周りの状況を観察している。そういう落ち着き方をしていた。
「同じホテルから?」
俺が聞くと、彼女は少し驚いた顔をしてから「あ、いえ。Airbnbで近くに」と答えた。
「Tichuca?」
「そうです。予約してるんですけど、名前が通らなくて」
俺は警備員に向き直った。
スマートフォンを取り出して、予約確認のメールを見せた。
「Miyoshi、two people」と言いながら、画面を指さした。
警備員がメールを確認して、名簿と照らし合わせた。
もう一人が電話をかけた。数秒後、うなずいた。
「Miyoshi and Yoshida?」と警備員が言った。
俺は後ろの女を見た。
「吉田さん?」
「そうです」と彼女が言った。少し笑った。
「Miyoshi and Yoshida. For Tichuca」
俺が言うと、警備員が通してくれた。
エレベーターに乗った。40階で乗り換えて、46階へ。
密閉された空間に、俺と彼女だけだった。
15秒ほどの沈黙だった。
エレベーターの中には、微かにユイのフレグランスが漂っていた。
甘すぎない、落ち着いた香りだった。
海外に来るとき、香水の選び方にその人間の旅の仕方が出ることがある。
派手な香りをまとう人間は、自分を主張したい旅をしている。
控えめな香りの人間は、溶け込もうとしている。ユイは後者だった。
「助かりました」と彼女が言った。
「たまたまですよ」
俺はそれだけ言って、正面の扉を見た。
エレベーターが止まった。扉が開いた。


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