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まとめた髪を、ほどいた夜だった [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 2 日前
  • 読了時間: 5分


【第2話】 マンジャの、奥の席で


仕事は予定通り終わった。

打ち合わせが11時から14時。

午後はホテルで資料整理と電話対応が2件。

夕方にはすべて片付いた。


ミオに連絡したのは17時過ぎだった。

「今夜、食事どうですか」 返信は4分で来た。

「どこですか」

「マンジャ。知ってますか」

「知ってます。行ったことないですけど」

「19時に」

「わかりました」


短いやり取りだった。

余計なことを書かない。

それだけで少し楽になる。


マンジャはブキ・ビンタンエリアにある。

マレーシア料理を現代的な解釈で出す店で、観光客が来るような場所ではない。

KLCCから車で15分ほど。

ローカルの富裕層と駐在員が常連に多く、テーブル間の間隔が広く、声が隣に届かない。

こういう密度の店を選ぶのには理由がある。

話すべきことが話せる距離感をつくるのは、料理より先に、席の選び方が決める。


ミオはすでに席にいた。

今朝のワンピースから着替えていた。

深い緑のシャツに細いパンツ。

髪は相変わらずアップにまとめている。

今朝より少し高い位置に結んで、耳元にスタッドのピアス。


「早いですね」と俺は言った。

「先に着いてた方が楽なので」

「なぜ」

「相手の反応が見えるから」


俺は少し笑った。その答えは嫌いじゃない。

シグネチャーのサンバルシュリンプと、ペッパークラブを頼んだ。

サンバルシュリンプは唐辛子とエビペーストを合わせたソースに、ぷりっとした海老が絡んでいる。

甘みと辛みが同時にくる。

KLのローカル料理の中で、外れたことがない一皿だ。


ペッパークラブはテーブルに来た瞬間から、黒胡椒の香りが立ち上がる。

鮮やかなオレンジ色のソースに沈んだ蟹を、手で割って食べるスタイルだ。

店が紙のエプロンを出してくれる。

マレーシアの食文化に慣れていない人間は、ここで少し気後れする。

そういうとき、どう動くかで、旅の深さがだいたいわかる。


ミオは慣れた手つきで殻を割っていた。

「KLの食事は毎日こういうのを?」と俺は聞いた。

「毎日じゃないですけど、好きです。最初は手が汚れるのが嫌だったんですけど、今は気にならなくなりました」

「それは本物の慣れですね」

「……今朝の続きですか、まだ」

「本当にそう思いました」

「フォローになってないですよ」

「フォローするつもりがない」


彼女が目を細めた。

少し考える顔をしてから、「あなた、変わってますね」と言った。

「よく言われます」

「私もよく言われる」

「じゃあ同じですね」

「全然違うと思う。あなたは、わざと変わってる感じがするから」

俺は少し間を置いた。

「半分合ってます」

「半分は?」とミオが聞いた。

「もう半分は素です」

ミオはそれを聞いて、コップを口に運んだ。

その仕草が少し遅かった。考えながら飲む人間の動作だった。


デザートにパンダンリーフを使ったプリンを頼んだ。

甘さが控えめで、食事の締めにちょうどいい。

緑がかった色で、見た目よりずっと繊細な味がする。

価格はふたり分で280リンギット前後。

一人では来るには惜しい店だとミオが言った。

俺はそれを聞いてから、「今夜は二人だから問題ない」と返した。


「KLに来て2年、日本には帰らないんですか」と俺は聞いた。

「帰ります。年に3、4回。でも帰ると逆に落ち着かなくて」

「なぜ」

「向こうにいると、こっちのことが気になっちゃって」とミオは言った。

「それは、日本が嫌なんじゃなく、KLが好きってことです」

「……そうかな」

「そういうことです」

ミオが俺を見た。少し照れているみたいだった。


朝から挑発をした。それに対して、彼女はその都度、きちんと考えてから答えた。

感情的になることもなく、すぐに折れることもなかった。

会話の中でそれができる女は、案外少ない。

たいていはどちらかに流れる。

怒るか、媚びるか。ミオはそのどちらでもなかった。


「旅行のプランニングをしてるんですか、仕事で」

「法人向けが多いです。出張のアレンジとか、インセンティブツアーとか」

「KLに詳しいですね、じゃあ」

「詳しいですよ」

「今夜、飲める場所を教えてもらえますか」

「……なんで私に聞くんですか」

「あなたに聞いた方が早そうだから」


ミオは少し考えてから「バー・トリゴナはどうですか」と言った。「フォーシーズンズの中にあって、雰囲気もいいし、カクテルが面白い」

「行きましょうか、今夜」

「……今から?」

「嫌ですか」

「嫌じゃないけど」

「じゃあいい」


彼女は口を開きかけて、閉じた。何かを言おうとして、やめた。その代わりに、小さく笑った。

俺はそれを確認して、店の人間を呼んだ。

会計を済ませて店を出ると、ブキ・ビンタンの夜の空気が来た。

KLCCとはまた違う熱気で、屋台の煙と人の声が混ざっている。


「タクシーで戻りますか」とミオが聞いた。

「Grabを呼んでください」

「知ってるんですか、Grab」

「KLに来たら使うものです」

「……観光客みたいなこと言いますね」とミオが笑った。

「たまに言います」

ミオが今夜一番の声で笑った。


車が来るまで、ふたりは歩道に並んで立っていた。

夜のKLの雑音の中で、何も言わなかった。

それで十分だった。

沈黙を埋めなくていい相手というのは、少ない。



[第3話] まとめた髪を、ほどいた夜だった に続く。



 Manja(マンジャ)

  • エリア:ブキ・ビンタン周辺

  • ジャンル:モダン・マレーシア料理

  • 特徴:伝統的なマレーシア料理を洗練されたスタイルで提供。観光客向けではなく、駐在員や地元富裕層が好む一軒。テーブル間の間隔が広く、会話に集中できる環境

  • おすすめ:ペッパークラブ、サンバルシュリンプ。ふたり分で280リンギット前後



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