まとめた髪を、ほどいた夜だった [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 4月27日
- 読了時間: 5分

【第4話】 届いたメール、その最後の一行
翌朝、ミオは8時前に起きた。
シャワーを使ってから、俺のそばに来た。
「……仕事は?」
「11時から」
「私は9時なので、そろそろ出ます」
「送ります」
「いいです。近いので」
髪をまとめながら、窓の外を見た。
「昨日より、空気が重い気がする」
「KLは毎日そんなもんです」
「……慣れました、って言ってもいいですか」
「今朝のは本物の慣れなので、構いません」
ミオが笑った。今朝の笑顔は、昨日より少しだけ深かった。
「また連絡します」
彼女が言った。
俺は「ゆっくり帰ってください」とだけ返した。
部屋を出ていくミオの後ろ姿を見た。
アップにまとめ直した黒髪。細い首。
昨日の朝にカフェで見たのと同じ後ろ姿が、今日は少し違って見えた。
扉が閉まった。
部屋にひとりになった。
窓の外はKLの朝だった。
ツインタワーが光の中に立っている。
昨夜3時にウイスキーを飲みながら見たのと同じ景色が、今は白い日差しの中にある。
昨夜と昨朝のあいだに、何かが起きた。それだけだ。
11時の打ち合わせを終えて、夕方の便で帰国した。
飛行機の中でノートパソコンを開いた。
出張報告書を書きながら、ミオのことを考えた。
考えた、というより、勝手に浮かんできた。
出張の終わりに女のことが浮かぶのはよくある。
ただ今回は少し長かった。
帰国して10日ほど経った頃、メールが届いた。
件名は「KL法人向けツアー・企画提案書ご送付の件」だった。
送り主は「○○マレーシアトラベルソリューション カスタマーサクセス担当」となっていた。
開いた。
法人向けのインセンティブツアー提案が、丁寧にまとめられていた。
ルートの詳細、宿泊ホテルの選定基準、チームビルディング要素の組み込み方。
スタッフの移動動線から食事のアレンジまで、過不足なく書いてある。
プロの仕事だった。
読み進めると、最後の一行があった。
「次来るとき、連絡してください。」
署名の直前、ビジネスの文体が一瞬だけ崩れていた。
それだけが他と違う。
俺はその一行を、もう一度読んだ。
帰国してからの日々はいつもと変わらなかった。
取引先との打ち合わせ。部下の山田からの報告。
月末の数字の確認。
毎朝同じルートで出社して、同じビルのエレベーターに乗る。
KLにいたのは実質2日間だ。
出張の日数としては短い。
ただ、短い時間ほど記憶は鮮明に残る。
これは経験上そうだと思っている。
山田が「KLはどうでしたか」と聞いた。
「問題なく終わった」と答えた。それだけだ。
山田は仕事の話だと思っているし、俺も仕事の話として答えた。
嘘はついていない。
KLの打ち合わせは問題なく終わった。
それは本当のことだ。
そのほかにも何かあったかどうかは、別の話だ。
KLのことは考えないわけじゃない。
ただ、こういう感情の置き場所については、長年かけて覚えた。
仕事の引き出しと、そうじゃない引き出しを分けておく。
混ぜない方がいい。
特定の女の記憶を東京の日常に持ち込むと、両方が薄くなる。
それを知っているから、意識的に切り離す。
ミオとは、あの朝以来、連絡を取っていなかった。
彼女からも来ていなかった。それが自然だった。
あの夜のことは細部まで残っている。
黒髪がほどけた瞬間の、あの部屋の変化。
鎖骨の骨の線。
日焼けの境目。
抑えた声。
俺の背中に食い込んだ指。
3時を過ぎた頃の静けさ。
窓の外のツインタワー。
ミオが眠ったあとに飲んだウイスキーの味。
忘れようとしているわけじゃない。
忘れる必要もない。
ただ、引き出しの中に収めておけばいい。
それだけだ。
ミオは今頃、KLで朝のカフェに座って、Macを開いて何かを打ち込んでいるだろう。
週末の窓際の席が取れていれば、それが理想だと言っていた。
それが取れているかどうかは、知らない。
職業としてKLを知っている女だから、あのメールが来たのはたまたまじゃない。
そう思った。本当にたまたまかもしれないが、たまたまであってほしくない気分もあった。
俺はメールに返信しなかった。
ビジネス提案への返答は、別の担当に回した。俺の仕事の範疇じゃない。
ただその夜、手帳を開いて出張スケジュールを見た。
KL行きの予定はなかった。
スマホを取り出して、フライトのアプリを開いた。
次のクアラルンプール便を探した。
翌月の後半、空きがある。
自分の予定と照合した。
出張の名目を、頭の中でひとつ考えた。
KL支社への報告というのはどうか。
前回の件の確認という形にすれば、稟議は通る。
山田を連れていく必要はない。一人で行く理由を、誰にも説明しなくていい。
日付を見た。 もう一度、見た。
「次来るとき、連絡してください。」
その一行を、もう一度思い出した。
署名の直前、ビジネス文書の中にただ一行だけ崩れていたその文字を。
連絡する、と決めたわけじゃない。
ただ日付は確認した。
フライトは調べた。
まとめた髪を、ほどいた夜だった。
それで十分だと思っていた。思っていたはずだった。
<完>

Four Seasons Hotel Kuala Lumpur(フォーシーズンズ・ホテル クアラルンプール)
エリア:KLCC(ツインタワー隣接)
特徴:ツインタワーに隣接し、KLCC公園の緑と夜景が楽しめる5つ星ホテル。ロビーの吹き抜けが高く、上層階の客室からの眺望は圧巻。Bar Trigona(バー・トリゴナ)はホテル内のロビー階にある
料金目安:1泊1,000リンギット〜(時期によって変動)




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