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まとめた髪を、ほどいた夜だった [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 3 日前
  • 読了時間: 5分


【第1話】 コーヒーが来るより先に


クアラルンプールの7時台は、すでに暑い。

ホテルの扉を出た瞬間から、空気の密度が変わる。

湿気と熱と、どこか植物の甘みを含んだ風。

初めてKLに来たのは10年以上前で、それからも仕事で何度か足を運んだ。

この空気に飽きたことは、一度もない。


フォーシーズンズ・クアラルンプールは、ツインタワーの足元に建っている。

ロビーの吹き抜けが高く、KLCC公園の緑が窓から見える。

ここを使うようになったのはKL支社のパートナーに紹介されてからで、それ以来、KL出張のたびに同じホテルを指定している。

慣れた場所で過ごす方が、余計なことに気を取られなくていい。


最初の打ち合わせは11時からだった。 午前中に3時間ある。

Feeka Coffee Roastersに向かったのは、KLCCからGrabで5分という理由だけだ。

ブキ・ビンタンのJalan Mesuiに店を構える、スペシャルティコーヒーを軸にしたカフェで、駐在員やクリエイター系の地元客に支持されている。

ラップトップを開いて黙々と仕事をする人間が多く、観光客の流れとは無縁だ。

平日の朝は特に静かで、資料を見ながら頭を整理するのに使っていた。


ポアオーバーを頼んだ。RM18。

この日の豆は果実系の香りが立って、後味がきれいだった。

白くて薄いカップが届く。

液体の色と温度を楽しむためだけにデザインされた形をしている。

KLで毎朝コーヒーを飲む場所を持つことは、この街の時間を知っている証明になる。

窓際の席を取って、コーヒーを注文した。


10分ほどして、隣に女が来た。

一つ隣の席に荷物を置いて、静かに腰を下ろした。

日本人だと、後ろ姿でわかった。

黒い髪をアップにまとめて、細い首が出ている。

160センチ前後。濃紺のシャツに、ベージュのパンツ。

テーブルにMacと、使いかけのノートを広げた。


注文を済ませた彼女が落ち着いたのを確認してから、横目で確認した。

二十代後半。顔立ちは整っている。

目がまるくて大きい。小顔で、化粧は薄い。

仕事をしているようで、画面を真剣に見ながら何かを打ち込んでいた。

日本人の女性が一人でKLに住んでいる場合、理由はだいたい3パターンに絞られる。

仕事、恋愛、逃避。

ひとつだけのこともあれば、複数が重なっていることもある。

この女の場合は、パソコンを開いて朝から仕事をしている以上、少なくとも仕事は含まれる。

残りは今の時点ではわからない。

わからなくても別にいい。ただ、少し気になった。


やがて彼女のコーヒーが先に届いた。

店員がカップを置いた拍子に、液体が少し揺れた。

彼女が慌てて手で押さえた。

こぼれてはいない。ただ、明らかに慌てていた。


「KLの朝、慣れましたか」

俺は言った。

「……え?」

彼女が振り向いた。丸い目が少し大きくなった。俺は続けた。

「朝から仕事をしているのに、コーヒー一つで動揺するのは、まだ慣れていない証拠かと思って」

「……動揺してないですけど」

「してましたよ」

「慣れてますよ、こっちの生活は」

「本当に?」


彼女の眉が少し動いた。

俺の言い方が気に障ったわけじゃないと思う。

ただ、答えを考えている顔だった。

「慣れた」という言葉を、俺が簡単に信用しなかったことに、引っかかった様子だった。


「……どういう意味ですか」

「慣れた、という言葉が便利すぎることがある。慣れたで本当に解決していることって、そんなに多くない気がして」

「それは、私が慣れてないって言いたいんですか」

「言ってないです」

俺は短く返して、届いたコーヒーに口をつけた。


間があった。

彼女はしばらく俺の横顔を見ていた。

俺は特に動かなかった。

目線は窓の外、KLCC公園の緑に向いている。


「……なんですか、それ」

彼女がぽつりと言った。声に笑いが混じっていた。

「何が」

「なんか感じ悪い言い方なのに、なぜか腹が立たないんですよね」

「それはたぶん、慣れていない証拠です。本当に慣れてる人間は、俺みたいなのを相手にしません」


彼女が今度は声に出して笑った。

クリっとした目が細くなる。笑顔になると幼く見える。

それなのに笑いが引いていくと、妙な色気が戻ってくる。

その落差が、少し引っかかった。


名前を聞いた。 ミオ、と言った。

旅行会社に勤めていて、KLのローカルオフィスに配属されて2年になる。

週5で仕事をして、週末はよくこのカフェに来る。

「毎週来るんですか、ここ」

「居心地がいいので。窓際のあの席が好きなんですけど、今日は先に取られていて」

「俺が取ってました」

「知ってます」


俺は笑った。今度は俺が笑った。

連絡先を交換したのは、店を出る10分前のことだった。

彼女のスマホには、日本語のアプリが入り乱れていた。

2年経っても、日本の環境を手放していない。

それは気づいていないかもしれないが、慣れきっていない証拠の一つだと俺は思った。


ただ、それを口に出す必要はなかった。

店を出ると、KLの朝の熱気がまた戻ってきた。

ミオは「では、また」と言って、来た方向と逆に歩いていった。

細い首が、人の流れの中に消える。見送りはしなかった。

ホテルに戻って、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。

11時の打ち合わせに備える。


出張中に女性と連絡先を交換することは、珍しくない。

ただ今朝のは少し違う感触があった。

挑発した。それに対して、ちゃんと反応した。

怒らず、かといってすぐに媚びるわけでもなく、少し考えてから笑った。

その順番が正しかった。こういう女は、押せば逃げる。引けば寄ってくる。

ただし、引き方が雑だと気づかれる。



[第2話] マンジャの、奥の席で に続く。



Feeka Coffee Roasters(フィーカ・コーヒー・ロースターズ)

  • エリア:ブキ・ビンタン、Jalan Mesui(KLCCからGrabで約5分)

  • 特徴:スペシャルティコーヒーとブランチメニューで知られる、駐在員・クリエイター系に支持される一軒。ミニマルな内装で平日の朝は静かに過ごせる。観光客向けではない

  • おすすめ:ポアオーバー(RM18前後)。豆の選定にこだわりがあり、産地ごとに香りと味わいが異なる



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