まとめた髪を、ほどいた夜だった [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 3 日前
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【第1話】 コーヒーが来るより先に
クアラルンプールの7時台は、すでに暑い。
ホテルの扉を出た瞬間から、空気の密度が変わる。
湿気と熱と、どこか植物の甘みを含んだ風。
初めてKLに来たのは10年以上前で、それからも仕事で何度か足を運んだ。
この空気に飽きたことは、一度もない。
フォーシーズンズ・クアラルンプールは、ツインタワーの足元に建っている。
ロビーの吹き抜けが高く、KLCC公園の緑が窓から見える。
ここを使うようになったのはKL支社のパートナーに紹介されてからで、それ以来、KL出張のたびに同じホテルを指定している。
慣れた場所で過ごす方が、余計なことに気を取られなくていい。
最初の打ち合わせは11時からだった。 午前中に3時間ある。
Feeka Coffee Roastersに向かったのは、KLCCからGrabで5分という理由だけだ。
ブキ・ビンタンのJalan Mesuiに店を構える、スペシャルティコーヒーを軸にしたカフェで、駐在員やクリエイター系の地元客に支持されている。
ラップトップを開いて黙々と仕事をする人間が多く、観光客の流れとは無縁だ。
平日の朝は特に静かで、資料を見ながら頭を整理するのに使っていた。
ポアオーバーを頼んだ。RM18。
この日の豆は果実系の香りが立って、後味がきれいだった。
白くて薄いカップが届く。
液体の色と温度を楽しむためだけにデザインされた形をしている。
KLで毎朝コーヒーを飲む場所を持つことは、この街の時間を知っている証明になる。
窓際の席を取って、コーヒーを注文した。
10分ほどして、隣に女が来た。
一つ隣の席に荷物を置いて、静かに腰を下ろした。
日本人だと、後ろ姿でわかった。
黒い髪をアップにまとめて、細い首が出ている。
160センチ前後。濃紺のシャツに、ベージュのパンツ。
テーブルにMacと、使いかけのノートを広げた。
注文を済ませた彼女が落ち着いたのを確認してから、横目で確認した。
二十代後半。顔立ちは整っている。
目がまるくて大きい。小顔で、化粧は薄い。
仕事をしているようで、画面を真剣に見ながら何かを打ち込んでいた。
日本人の女性が一人でKLに住んでいる場合、理由はだいたい3パターンに絞られる。
仕事、恋愛、逃避。
ひとつだけのこともあれば、複数が重なっていることもある。
この女の場合は、パソコンを開いて朝から仕事をしている以上、少なくとも仕事は含まれる。
残りは今の時点ではわからない。
わからなくても別にいい。ただ、少し気になった。
やがて彼女のコーヒーが先に届いた。
店員がカップを置いた拍子に、液体が少し揺れた。
彼女が慌てて手で押さえた。
こぼれてはいない。ただ、明らかに慌てていた。
「KLの朝、慣れましたか」
俺は言った。
「……え?」
彼女が振り向いた。丸い目が少し大きくなった。俺は続けた。
「朝から仕事をしているのに、コーヒー一つで動揺するのは、まだ慣れていない証拠かと思って」
「……動揺してないですけど」
「してましたよ」
「慣れてますよ、こっちの生活は」
「本当に?」
彼女の眉が少し動いた。
俺の言い方が気に障ったわけじゃないと思う。
ただ、答えを考えている顔だった。
「慣れた」という言葉を、俺が簡単に信用しなかったことに、引っかかった様子だった。
「……どういう意味ですか」
「慣れた、という言葉が便利すぎることがある。慣れたで本当に解決していることって、そんなに多くない気がして」
「それは、私が慣れてないって言いたいんですか」
「言ってないです」
俺は短く返して、届いたコーヒーに口をつけた。
間があった。
彼女はしばらく俺の横顔を見ていた。
俺は特に動かなかった。
目線は窓の外、KLCC公園の緑に向いている。
「……なんですか、それ」
彼女がぽつりと言った。声に笑いが混じっていた。
「何が」
「なんか感じ悪い言い方なのに、なぜか腹が立たないんですよね」
「それはたぶん、慣れていない証拠です。本当に慣れてる人間は、俺みたいなのを相手にしません」
彼女が今度は声に出して笑った。
クリっとした目が細くなる。笑顔になると幼く見える。
それなのに笑いが引いていくと、妙な色気が戻ってくる。
その落差が、少し引っかかった。
名前を聞いた。 ミオ、と言った。
旅行会社に勤めていて、KLのローカルオフィスに配属されて2年になる。
週5で仕事をして、週末はよくこのカフェに来る。
「毎週来るんですか、ここ」
「居心地がいいので。窓際のあの席が好きなんですけど、今日は先に取られていて」
「俺が取ってました」
「知ってます」
俺は笑った。今度は俺が笑った。
連絡先を交換したのは、店を出る10分前のことだった。
彼女のスマホには、日本語のアプリが入り乱れていた。
2年経っても、日本の環境を手放していない。
それは気づいていないかもしれないが、慣れきっていない証拠の一つだと俺は思った。
ただ、それを口に出す必要はなかった。
店を出ると、KLの朝の熱気がまた戻ってきた。
ミオは「では、また」と言って、来た方向と逆に歩いていった。
細い首が、人の流れの中に消える。見送りはしなかった。
ホテルに戻って、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。
11時の打ち合わせに備える。
出張中に女性と連絡先を交換することは、珍しくない。
ただ今朝のは少し違う感触があった。
挑発した。それに対して、ちゃんと反応した。
怒らず、かといってすぐに媚びるわけでもなく、少し考えてから笑った。
その順番が正しかった。こういう女は、押せば逃げる。引けば寄ってくる。
ただし、引き方が雑だと気づかれる。
[第2話] マンジャの、奥の席で に続く。

Feeka Coffee Roasters(フィーカ・コーヒー・ロースターズ)
エリア:ブキ・ビンタン、Jalan Mesui(KLCCからGrabで約5分)
特徴:スペシャルティコーヒーとブランチメニューで知られる、駐在員・クリエイター系に支持される一軒。ミニマルな内装で平日の朝は静かに過ごせる。観光客向けではない
おすすめ:ポアオーバー(RM18前後)。豆の選定にこだわりがあり、産地ごとに香りと味わいが異なる



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