沈む前に、飲もう [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月9日
- 読了時間: 4分
更新日:5月11日

【第2話】 バリ料理と、素直な女
Made's Warungは、スミニャックの通りを少し入ったところにある。
1969年の創業だ。
60年近く続いているというのに、それを威張らない。
バリ彫刻の装飾と、開放的な造りと、変わらない料理で静かにやっている。
観光地にずっと立ち続けられる店が持つ空気は、何度来ても落ち着く。
外から見ると奥が深く、中に入るとそれよりさらに広い。
この店をバリで最初に訪れた外国人旅行者たちが、バリ料理を「知った」場所だ。
サキとは店の前で落ち合った。
「どこ行ってたんですか、今日。」俺が先に着いて待っていると、彼女は少し早足で来た。
「タナロット行ってきました。海の神殿。」
「観光客が多い時間じゃなかったか。」
「すごかったです。でもきれいだった。」少し笑った。「行ったことありますか。」
「ある」と俺は言った。「夕方が一番いい。」
「次来たときに。」
次来たとき、という言い方をした。
次があることを、自然に前提にしている。
この手の女は、計画より感覚で動く。バリを一度で終わらせる気がない。悪くない。
席についた。ナシチャンプルを頼んだ。Rp138,000。
バリの伝統的な盛り合わせだ。
白米の周りに、サテリリット、空心菜の炒め物、テンペ、揚げたピーナッツ、そしてサンバルが並ぶ。
一口食べると、スパイスの重なりが鼻を抜ける。
甘みと辛みが同時にある。
旅先でこれを食べるのは、日本で食べる東南アジア料理とは別物だ。空気が違う。
開放的な夜風が来る場所で食べるバリ料理には、他では出せない味がある。
サキがサンバルをかけすぎて、少しむせた。
「辛い」と彼女は言った。
「そうだな」と俺は言った。
こらえるのが少し難しかった。
「見てたでしょ」
「見てた」と俺は言った。
彼女は笑った。むせながら笑った。バリの夜に似合う笑い方だと思った。
食べながら、ぽつぽつと話した。
サキは都内の大手企業で事務職をしている。
仕事は嫌いではないが、特別好きでもない。
旅行のためにちゃんと有休を使う。
年に数回、一人でアジア各地に行く。
今年バリを選んだ理由は特にない。
来たかったから来た。
そういう答えができる人間は、自分の感覚に正直だ。
俺は好きだ、そういう人間が。
「仕事は楽しいですか」と彼女は聞いた。
「楽しいかどうかは考えたことない」と俺は言った。「面白いとは思う。」
「どう違うんですか。」
「楽しいのは消費で、面白いのは発見だと思ってる。」
間があった。
「なんか、出張の人っぽい答えですね。」
「そうか?」
「うん。旅行の人はそんな風に言わないから。」
それが正しい観察かどうかは分からない。
ただ、的外れでもなかった。俺は否定しなかった。
サキは旅先でよく食べる、と言った。
日本にいると食欲が落ちることがある。
でも旅先では体が動く感じがする。
それは本当だと思う、と俺は言った。
旅は体を正直にさせる。
日常の癖が剥がれていく。
嫌いだと思っていた食感が食えるようになったり、
好きだった味が突然どうでもよくなったりする。
バリの夜の空気と、バリ料理のスパイスと、隣にいる人間が全部混ざって、その夜だけの食事になる。
「また来たい」とサキが言った。
「そうだな」と俺は言った。
食後、外に出た。
夜のスミニャックはバイクの音が絶えない。
屋台の匂いと夜風が混ざっている。
サキが歩きながら少しだけ俺の横に入った。
道が狭かった。そういうことにしておいた。
「明日の夕方、空いてるか」と俺は言った。
「たぶん。」
「岩の上にバーがある。ジンバランまで行くことになるが、夕陽が見える。」
「行きます。」
断らなかった。迷いもなかった。この女は、行きたいときに行くと言う。
歩きながら、サキが言った。「今日、どこで会いました、みたいな話ができないですよね。」
「なんで。」
「出張と旅行で会いましたって、なんかちょっと変じゃないですか。」
「変じゃない」と俺は言った。「ただの事実だ。」
彼女は少し黙った。
それから、「そうですね」と言った。
笑い方が昼間より柔らかくなっていた。
バリの夜が作る空気というものがある。
スパイスの匂いと、遠くの波の音と、湿った風が全部混ざっている。
この空気の中では、人は少しだけ素直になる。俺もそれを知っている。
ホテルに向かうサキの後ろ姿を見ながら、俺は翌日のことを一瞬だけ考えた。
考えたが、すぐやめた。
今夜の残りと、明日の夕方があれば、それで十分だ。
[第3話] 岩の上で、夕陽を見た に続く。

Made's Warung(マデス・ワルン)/基本情報
住所: Jl. Raya Seminyak, Seminyak, Kuta, Badung, Bali
おすすめ: ナシチャンプル(Rp138,000)、サテリリット
特徴: 1969年創業。バリ最初期の観光向けレストランのひとつ。
外国人にバリ料理を初めて伝えた店として知られる。
バリ彫刻の装飾と開放的な造りが印象的。



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