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沈む前に、飲もう [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 5月8日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月11日



【第1話】 スミニャックの朝、俺の隣に


バリに来て3日目になる。

商談は昨日で終わった。

電動モビリティの事業化スキームを組むプロジェクトだ。

インドネシア政府が打ち出した再生可能エネルギー政策に乗る形で、

観光地への電動車両の導入とEV充電インフラの整備を束ねる

——そういう案件で、現地の政府系ファンドと3日間かけて協議していた。


バリが環境配慮型の観光地に転換しようとしていることは、数字に出始めている。

電動バイクの普及率、リゾートへの太陽光導入率、観光客一人当たりのCO2排出量の目標値。

こういう話をするのに、東京の会議室より現地の方がずっと速い。

バリに商社の出張拠点が増えているのは、理由がある。


残り2日は、報告書の整理と次の商談に向けた情報収集に使う予定だった。

朝、「ザ・レギャン」を出た。

スミニャックのビーチ沿いにある、白い外壁のブティックホテルだ。

プールを見下ろせるスイートに3泊している。

部屋で仕事もできるが、外の方が捗る。

ラップトップをバッグに入れて、ペティテンゲ通りを歩いた。


Sisterfieldsに入った。

オーストラリア人が始めたカフェで、スミニャックでは長く続いている部類に入る。

白を基調にした内装に、観葉植物が無造作に置いてある。

窓が大きく、午前中は光が入りすぎるくらい入る。

席に着いてラップトップを開くと、通りを人が行き来するのが見えた。

見る側に回れる店は、仕事がしやすい。


フラットホワイトを頼んだ。Rp62,000。

スマッシュドアボカドトーストを追加した。Rp145,000。

アボカドが粗くつぶされて、フェタチーズとハーブオイルが散っている。

一口食べると、塩気と軽い酸みが交互に来る。

観光地の甘いホテル朝食より、こういう店の飯の方が、午前中の体が動く。

この金額で、この朝の密度。

バリで旅を知っている人間は、朝をこういう場所で始める。


メールを2本片付けた。

送り忘れていた資料を転送した。

資料を開いて、次の商談の下調べを始めた。

テーブルは埋まっていた。

空いているのは、俺の隣だけだった。


「ここ、いいですか」

顔を上げなかった。「どうぞ」とだけ言って、画面に視線を戻した。

隣に座る気配がした。

バッグを床に置く音。椅子を引く音。

メニューを開く気配。

俺はそれを意識していなかったかといえば、正直そうでもない。

ただ画面を見ていた。それで十分だ。動かない。これが鉄則だ。


10分ほど経った。「バリ、何日目ですか」

突然だった。ただ、躊躇のない声だった。

考えてから出た言葉ではなく、口から先に出た感じがした。

俺は画面から目を離した。


160センチそこそこ。白いリネンのワンピース。

細い、というより骨格そのものが細い。

鎖骨から肩の線にかけて、まっすぐできれいだった。

顔立ちは整っているが、化粧が薄い。唇の色だけが、少し鮮やかだった。

海の近くに来ると、女は素顔に近づく。

それがバリの法則だと俺は思っている。


「3日目」と俺は答えた。「あなたは。」

「4日目です。」

間があった。

「旅行ですか」

「はい。有休とって来ました。特に目的もないんですけど。」少し笑った。


目的のない旅ができる人間は、旅そのものが好きな人間だ。

ツアー旅行者には目的がある。スケジュールがある。

何も決めずに来られる人間は、旅に慣れている。

それだけでなく、旅に飽きていない。この差は大きい。


「今日、どこか決まってますか」

「全然。なんとなく動こうかなって。」

「Made's Warungに行ったことある?」

「まだです。名前は知ってますけど。」

「夜に行くといい。何十年も続いてる店だ。スミニャックにいるなら歩いて行ける。」

「行ってみます。」

「一人で?」


間があった。彼女は俺を見た。探るような目だった。

値踏みしているのか、決めかねているのか、どちらかは分からなかった。

ただ、笑おうとして笑わなかった。

「どうですか」と彼女は言った。

俺はラップトップを閉じた。


サキ、と名前を教えてもらったのはその後だった。

仕事は夜にもできる。

コーヒーをもう一杯頼んだ。彼女も同じものを頼んだ。

ラップトップはバッグに入れたままにした。

2杯目のフラットホワイトは、1杯目より少し冷めた気温で飲んだ。

スミニャックの朝は、東京と比べて時間の流れが違う。

急ぐ必要がない、という感覚が体に入ってくる。

バリに来るたびにそれを確認する。


「旅、一人が多いんですか」と俺は聞いた。

「ほぼそうです。友達を誘っても予定が合わないから。」

「合わせてほしいとは思わない?」

「旅先のペースって、人によって全然違うから。」

少し考えてから続けた。

「一人の方が、その土地に入っていける気がして。」


旅の哲学を持っている人間だ。

聞いて確認した。悪くない。

「いつ帰るんですか」

「明後日の朝。」

明後日。俺より1日早い。

この計算を俺がしていることを、彼女は知らない。





Sisterfields(シスターフィールズ)/基本情報

住所: Jl. Petitenget No.56, Seminyak, Kuta Utara, Badung, Bali

おすすめ: フラットホワイト(Rp62,000)、スマッシュドアボカドトースト(Rp145,000)

特徴: オーストラリア発のカフェ。スミニャックの朝を代表する一軒。

オープンエアで開放感があり、旅慣れた外国人が多く集まる。

朝7時オープン。午前中は席が埋まりやすい。



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