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沈む前に、飲もう [最終話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 5月11日
  • 読了時間: 5分



【最終話】 その夜だけの話だ


翌朝、目が覚めたとき、サキはいなかった。

時刻は7時過ぎ。シーツに彼女の熱が残っていた。

バスルームに行ったかと思って確認したが、誰もいない。

バルコニーに出た。スミニャックの朝の空気が来た。

海の方から風が吹いている。隣に人の気配はなかった。


テーブルにメモがあった。

「先に出ます」とだけ書いてあった。

丸い字だった。一文だった。それ以上でも以下でもなかった。


LINEの交換はしていなかった。

昨夜もしなかったし、今朝も求めなかった。

俺もそれでいいと思っていた。

聞かなかった、ではなく、聞く必要がなかった。

この種の夜には、続きを前提にしない方が誠実な場合がある。

サキも、それを分かっていたと思う。

彼女が「先に出ます」と書いたのは、そういうことだ。

「さようなら」ではなく「先に」と書いた。

それは事実だけを書いた一文だ。

余計なことが何も書いていない文章は、書いた人間の知性を表す。

俺はそれが好きだった。


メモをしばらく手に持っていた。

それから折り畳んで、財布に入れた。

なぜそうしたのか分からない。

捨てても何も困らない。ただ、捨てなかった。


シャワーを浴びた。

バリに来た3日間の澱が流れていく気がした。

鏡に映った自分の顔を一度見た。

特に変わっていない。それでいい。

変わっていたら困る。


荷物をまとめた。

ラップトップを開いて報告書の最終確認をした。

EVプロジェクトの次のフェーズに向けた論点を整理して、先方にメールを送った。仕事は仕事だ。

どんな夜の後でも、朝になれば数字と向き合う。それが出張だ。


チェックアウトは正午だった。

空港へ向かう前に、少し遠回りをした。

サヌールに寄った。Massimoという店がある。

イタリア人のオーナーが作るジェラートで、バリに長く根付いている一軒だ。

Jl. Danau Tamblinganの角にある小さな店で、外に出ている看板だけが目印だ。

観光客向けというよりは、地元の外国人が習慣的に通っている感じがする。

Rp45,000のカップを頼んだ。ピスタチオとマンゴーを選んだ。

ピスタチオは重く、マンゴーは軽い。

二つを混ぜると、思ったより複雑な味になった。

単純に足し算にならない。

こういう組み合わせを面白いと思えるのは、うまいと思えるからではなく、予想を外れるからだ。

これはジェラートの話だが、別の話でもあるかもしれない。


一人で食いながら、Rock Barの夕陽を思い出した。

沈む前に、飲もう。

あのとき俺が言いたかったのは、そういうことじゃなかったかもしれない。

太陽が沈む前に飲もうと言っただけだ。

それ以上でも以下でもない。

ただ、あのタイミングで口から出た言葉だった。

言葉というのは、意図より先に出ることがある。

出てから意味に気づくことがある。

あの一言がそうだったかどうかは、今でも分からない。

分からないまま、バリを出る。それでいい。


ジェラートを食べ終えた。

プラスチックのカップを捨てた。

サヌールの通りは昼間でも静かだ。

スミニャックのにぎやかさとは別のバリがある。

観光客があまり来ない時間帯の路地には、バリが観光地になる前から続いている空気がある。

こういう場所を一人で歩くことが、旅の正味だと俺は思っている。

スミニャックのカフェで仕事をしながらコーヒーを飲む旅も、岩の上で夕陽を見る旅も、全部バリだ。

どれが本物かは決めなくていい。


空港に向かった。

フライトは定刻通りに飛んだ。

窓の外に、バリの海岸線が見えた。

インド洋の青は、東京では絶対に見られない色だ。

それを知っているだけで、今回の出張には来た意味があったと思っている。仕事の話は別として。

飛行機が雲に入った。海岸線が消えた。

バリが見えなくなった。


サキのことを考えたかといえば、少し考えた。

あの「先に出ます」という一文のことを。

起きたら誰かがいなくなっているというのは、寂しいのかどうか俺には判断がつかない。

寂しくはなかった気がする。

でも、いなくなる前に目が覚めていたら、どうしていたか。

それは考えた。考えたが、答えは出なかった。


続きを持たない夜というのは、案外きれいに終わる。

引きずらない。

それはお互いが大人だということだし、その夜だけをちゃんと完結させたということでもある。

中途半端に連絡先を交換して、ぼんやりしたやり取りを続けるより、

潔く終わらせた夜の方が、時間が経っても輪郭がはっきりしている。


次のバリ出張がいつになるかは、分からない。

電動モビリティのプロジェクトが次のフェーズに進めば、また来ることになる。

来たとしても、サキには会えないだろう。

Sisterfieldsで会ったのが出会いの朝で、「明後日の朝に帰る」と彼女が言っていた。

つまり今日だ。

朝の便で飛び立ったとすれば、今頃は俺と同じ空のどこかにいるか、あるいはすでに東京に着いている。

どちらにせよ、俺よりは先に日常に戻った。

それでいいと思っている。

あの夜をきれいなまま終わらせるには、繰り返さない方がいい。


その夜のことは、その夜だけの話だ。

それ以上にも、それ以下にもならない。

そういう夜が、たまにある。

悪くない旅だった。


<完>


Massimo(マッシモ)/基本情報

住所: Jl. Danau Tamblingan No.228, Sanur, Bali

おすすめ: ジェラートカップ(Rp45,000〜)、ピスタチオ、マンゴー

特徴: イタリア人オーナーが作る本格ジェラート。サヌールに長く根付く一軒。

空港方面に向かう途中に寄れる立地。

イタリア伝統フレーバーとトロピカルフレーバーが共存する。

The Legian Seminyak, Bali(宿泊ホテル)/基本情報

住所: Jl. Laksmana, Seminyak Beach, Bali

特徴: スミニャックビーチ沿いのオールスイートブティックホテル。

インド洋に面したプールと落ち着いたインテリアが特徴。1998年開業。

バリのラグジュアリー系ブティックホテルの先駆けのひとつ。



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