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ファンじゃない男 [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 5月2日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月7日



【第2話】 Mott32、地下の紅い光の中で


仕事は予定通りに片付いた。

午後は香港島に戻ってホテルで資料整理と電話対応を2件。

夕方には全部終わった。

マンダリン オリエンタルに戻ってシャワーを浴びて、スーツを着た。

このホテルは1963年開業で、英国植民地時代の格式を今も引き継いでいる。

ロビーのスタッフの所作が、他のホテルと少し違う。

積み上げてきた時間がそのまま接客に出ている。

香港に来るたびに同じホテルを指定するのは、慣れた場所の方が余計なことに気を取られなくていいからだ。


一方、ナナが泊まっているのは重慶大廈近くの1泊3500円のゲストハウスだ。

同じ香港の夜にいながら、二人の宿は全然違う。

それは別に問題ではない。

ただ、今夜彼女をどこに連れていくか、という話で考えると、少し面白い構図がある。

重慶大廈は九龍の中でもとりわけ雑多な場所で、世界中のバックパッカーが集まる。

そこからMTRで20分、中環のMott32へ。この落差が今夜の香港を作る。


19時に、ナナは来た。

着替えていた。細身のネイビーのワンピース。

ヒールはない。でも背筋が伸びていた。小さい顔に薄いリップ。

アイドルとして人前に出る準備に、慣れているのかもしれない。


「きれいですね」と俺は言った。

「ありがとうございます」とナナはまっすぐ受け取った。

下を向かなかった。

それだけで、この女の気性がわかる。

媚びない。受け取る。

その二つが同時にできる女は、案外少ない。


Mott32はスタンダードチャータード銀行ビルの地下にある。

重厚な石のエントランスを抜けると、照明が落ちて、1930年代の上海をモダンに解釈したような空間が広がる。

天井が高く、光が暗くくぐもっている。

赤みがかった間接照明が、テーブルと人の顔を照らしている。

観光客のための店ではない。ここに来る人間は目的を持って来ている。


北京ダックを頼んだ。

アーモンドウッドで焼き上げるこの店の鴨は、テーブルでシェフが切り分ける。

1羽HK$748。2〜3日前までの予約が必要だ。

皮がパリッと割れる音が聞こえる。

薄いクレープに包んで、甜麺醤と細葱と一緒に食べる。

脂と香りが口に広がって、後味がきれいだ。

ここに来るなら北京ダックを外す理由がない。

他の店で食べた北京ダックが霞む種類の一皿だ。価格に見合うどころか、それ以上に返ってくる。


ナナは料理が来るたびに目が動いた。

153センチの体に、この店の料理は少し多かったかもしれない。

それでも手を止めなかった。食べることに遠慮がない。それも悪くない。


「すごい……これ有名なお店ですか」

「知る人は知る、くらいです」

「こういうとこ、いつも来るんですか、出張で」

「いい店を一軒覚えておく。それを繰り返すと自然に増えます」

「仕事できる人ってそういうことするんですね」

「それほどでもないですよ」

「謙遜してる」とナナは笑った。


食事の間、彼女はよく話した。

地下アイドルとしての日常。

ライブの準備、手作りのグッズ、握手会。

来るファンは毎回10人前後。

それでも、その10人のために毎回準備する、と言った。

振り付けを覚えて、衣装のアイロンをかけて、SNSを更新して、本番2時間前には現場入りする。

それを毎月2〜3回繰り返す。合間にカフェのバイトが週4日入る。


「睡眠取れてますか」

「ギリギリで取ってます」

「身体壊しますよ」

「わかってるんですけどね」とナナは言った。

「でも、どっちかやめろって言われたら、やめられないから」


「やめようと思ったことは?」

「何度もあります。でもやめ方がわからなくて」

「やめ方がわからない、というのは、まだ続けたいということでもある」

ナナが少し黙った。

「……そういう言い方をされると、ちょっと泣きそうになるんですけど」

「泣いても構いませんよ」

「泣かないですけど」とナナは笑った。


デザートに杏仁豆腐を頼んだ。

甘みが軽く、食後の口がきれいになる。

ナナは「おいしい」と言った。

その顔が少し幼かった。

昼のテンプル・ストリートで地図を見て迷っていた顔と同じで、この女は根っこのところで、まだどこか迷子なんだと思った。


アイドルをしていると言った。

売れていないとも言った。

でもステージに立ち続けている。

バイトを掛け持ちして、それでも続けている。

地下でやっていることの意味を、本人が一番わかっていないのかもしれない。

それでも続けているのは、やめ方がわからないからじゃなく、本当はやめたくないからだ。

それをさっき伝えた。


悪くない。

「次、バーに行きますか」と俺は言った。

「行きます」とナナはすぐに返した。


迷わなかった。

今夜を終わらせたくないんだと思った。

あるいは、俺の隣にいることが今夜の彼女には必要だったのかもしれない。

逃げて来た香港で、地図を見て迷って、偶然隣に座った男と夜を過ごしている。

それがナナにとって何を意味するのかは、俺には関係がない。

ただ、この夜を終わらせるのは早い。

もう少し時間がある。

そういうことだ。

Bar Leoneまで案内できるくらいには、今夜の香港がまだ続いている。





 Mott32(卅二公館)

  • エリア:香港島・中環、スタンダードチャータード銀行ビル地下

  • ジャンル:モダン北京料理・広東料理

  • 特徴:1930年代の上海をモダンに解釈した重厚な空間。アーモンドウッドで焼き上げる北京ダックが世界的に名高い。訪れる者を選ぶような格がある

  • おすすめ:北京ダック1羽HK$748(2〜3日前までの予約が必要)




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