ファンじゃない男 [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月4日
- 読了時間: 5分

【最終話】 ファンじゃない男
翌朝、ナナは7時に起きた。
シャワーを借りて、手早く身支度をして出てきた。
「今日、最終日なんです」とナナは言った。
「何時のフライト」
「夕方5時」
「昼まで時間がある」
「観光したい場所が残ってて」と彼女は言った。
少し申し訳なさそうに。
「いいですよ。楽しんできてください」
ドアのところで、ナナが振り返った。
「……ありがとうございました」
「何が」
「全部。Mido Cafeも、Mott32も、Bar Leoneも、昨夜も」
「礼はいらないですよ」
「でも言いたかったので」とナナは言った。
「また香港に来たら連絡してください」
「来ますよ、絶対に」とナナは言った。「次は三好さんを案内できるくらいに詳しくなってきます」
「それは楽しみですね」
扉が閉まった。
それから3週間が経った。
東京の日常は変わらなかった。
取引先との打ち合わせ。
部下の山田からの報告。
月末の数字。
毎朝同じルートで出社して、同じビルのエレベーターに乗る。
香港のことは引き出しの中に入れておいた。
必要なときに取り出せる場所に、ただ置いておく。
出張の記憶の扱い方は、長年かけて覚えた。混ぜない。
仕事の時間と、そうじゃない時間を切り分けておく。
そうしないと、どちらも薄くなる。
ただ、テンプル・ストリートの港式奶茶の味だけは、ふとした瞬間に思い出した。
あの濃さと甘みは、東京では出せない。
それと一緒に、地図を見て迷っていたナナの後ろ姿も浮かんでくる。
こういうのは消そうとすると長引く。
消さずに置いておくのが正解だと知っている。
ナナとは帰国後、ときどきLINEをした。
向こうから送ってくる。
香港で撮った写真。
「三好さん行ったことありますか」
「あります」
「詳しいんですね」
「それなりに」。
そういうやり取りが続いた。
ある土曜の昼、LINEが来た。
「今週末ライブあります。よかったら」
フライヤーの画像が届いた。
薄暗い画像に、アイドルグループの名前。
場所は下北沢のライブハウス。開演19時。
俺は少し考えた。
行くべき理由も、行かない理由も、どちらもあった。
ただ、考えながら気づいたら着替えていた。
それが答えだと思った。
出張で得た夜の記憶を、東京のライブハウスまで持ってくることになるとは思っていなかった。
でも、来ることにした。理由を整理する必要はない。
下北沢に来たのは久しぶりだった。
古着屋と小劇場とカレー屋が混在する街。
この街にライブハウスがあるのは当然だと思えるような場所だった。
俺は地図を見ながら歩いた。
Hong Kongでナナが地図を見ていたのと同じように。
それに気づいて、少し可笑しくなった。
ライブハウスは薄暗かった。
フロアは30人入れば満員という広さで、この日は20人ほどいた。
前の方にいるのは、明らかにヲタクの男たちだった。
同じ色のペンライトを持って、リズムに合わせて振っている。
俺はスーツを脱いでカジュアルな格好で来たが、それでもこのフロアでは少し浮いた。
場違いだとわかっていて、それでも来た。
照明が落ちた。
ステージに4人が出てきた。
ナナは右端だった。センターではない。
でも出てきた瞬間、俺の目には入ってきた。
衣装は安そうだった。
振り付けは完璧じゃない。
音響も正直よくない。
それでも、ナナはステージの上で笑っていた。
あの笑顔を、今日は20人近くが受け取っている。
昨夜の顔とは違う。でもどちらも本物の顔だ。
Mido Cafeの前で地図を見て迷っていた女が、今ここでステージに立っている。
売れていないかもしれない。
センターじゃないかもしれない。
でも、10人のために毎回準備する、と言った言葉を、俺はまだ覚えている。
ヲタクたちのMIXコールが飛んでいる。
合いの手の言葉がわからない。
それでもここに来たのは、来てみたかったからだ。
理由はそれだけで十分だと思った。
2曲目に入った頃、ナナが客席を見渡した。
俺と目が合った。
一瞬だけ、ナナが笑った。
さっきまでとは別の笑顔だった。
ステージ用の笑顔でも、香港の夜に見せた笑顔でもない。
もう一つの笑顔があった。
ライブは40分で終わった。
アンコールが終わって、フロアに明かりが戻った。
ヲタクたちが「よかった」「ナナちゃん最高」と話している。
俺は出口に向かった。
外に出ると、10分ほどしてナナが出てきた。
衣装から着替えて、私服に戻っている。
化粧は落としていない。
「来てくれたんですね」とナナは言った。
「来ましたよ」
「……緊張した。いたら絶対やらかすと思って」
「うまかったですよ」
「嘘ですよ」
「嘘じゃないですよ」
ナナが笑った。
下北沢の夜の中で、その笑顔が思ったより明るかった。
「また香港行きます」とナナは言った。「決めました、今夜で」
「連絡してください」
「します」
それだけ言って、ナナは駅の方へ歩いていった。
俺は見送った。
細い後ろ姿が下北沢の夜の雑踏に消えていく。
香港のテンプル・ストリートで見た後ろ姿と同じだった。
あのときも、こうして見送った。
スマホを取り出した。
次のKL出張の日程が入っている。
その次に、香港の仕事が入る余地があるかどうかをざっと確認した。
山田に調整を頼めば、何とかなるかもしれない。
ファンじゃない。 でも、来た。
それだけのことが、この夜には十分だった。
<完>

Mandarin Oriental Hong Kong(マンダリン オリエンタル 香港) / 基本情報
エリア:香港島・中環、コノート・ロード5番地
特徴:1963年開業、香港を代表する5つ星ホテル。英国植民地時代の格式を今も引き継ぐ。Bar Leone・Mott32へのアクセス良好。上層階からビクトリアハーバーと香港島の夜景を望む
料金目安:1泊HK$4,000〜(時期により変動)



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