ファンじゃない男 [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月1日
- 読了時間: 5分
更新日:5月7日

【第1話】 Mido Cafe、テンプル・ストリートの端で
油麻地の打ち合わせが14時に終わった。
九龍側に仕事が入ることは珍しい。
今回は現地のサプライヤーが油麻地に事務所を構えていた。
一棟丸ごと古い雑居ビルで、エレベーターが2基しかなく、どちらも遅い。
打ち合わせ自体は問題なく進んで、2時間で片付いた。
外に出ると、テンプル・ストリートに人が出始めていた。
昼と夜のあいだの時間帯で、屋台はまだ準備中、ローカルの人間が歩道を行き来している。
この街の体温が、そのままアスファルトに滲み出ているような感覚がある。
香港島のビジネス街とは別の空気だ。
こちらの方が、どこか本物に近い気がするのは、年齢のせいかもしれない。
Mido Cafeに向かったのは、腹が空いていたのと、あそこの港式奶茶が飲みたかったからだ。
1950年創業の老舗茶餐廳で、テンプル・ストリートの端に何十年も変わらない顔で建っている。
タイル張りの内装、古い明朝体の看板、天井の古いファン。
時間が止まっているように見えて、その止まり方が心地よい。
香港映画のロケ地にもなった場所で、知る者だけが足を運ぶ一軒だ。
香港島のビジネス街から渡ってきた甲斐はある。
こういう店は、快適なロビーのあるホテルの周囲には存在しない。
九龍の、少し古い街並みの中にしかない。
出張のたびに一度は渡ってくる理由がそこにある。
KLに「ここだけは来る」という店があるように、香港ではここがその一軒だ。
入り口の前に、女が立っていた。
スマホの地図画面を見下ろして、顔を上げて、また見下ろす。
それを繰り返している。
明らかに迷っている。
25歳前後。153センチあるかないか。
細身で、スキニーのパンツに薄いグレーのTシャツ。
リュックが一つ。日本人だと後ろ姿でわかった。
「Mido Cafe、ここですよ」
俺は言った。
女が顔を上げた。目が大きい。小さい顔をしている。
「……え、そうなんですか」
「入ったことは?」
「初めてです。ここがいいって書いてあって」
「じゃあ入りましょう」
断られる前に俺はドアを開けた。
こういう場面で迷うのは時間の無駄だ。
入るか入らないかは、聞いてからでいい。
席は相席になった。
小さい店で、テーブルが詰まっている。
港式奶茶を頼んだ。HK$22。
エバミルクを使った濃厚なミルクティーで、色が濃く、口に含むと甘みとコクが同時にくる。
ティーバッグでも缶コーヒーでもない、この国でしか出せない一杯だ。
バタートーストと合わせるのが正解で、厚切りの食パンにバターがしみ込んでいる。
香港に来て、茶餐廳に入らない旅は、半分しか来ていないのと同じだと俺は思っている。
女は同じく奶茶と、エッグタルトを頼んだ。
「旅行ですか」と俺は聞いた。
「はい。3泊4日で」
「一人で?」
「一人です。格安で来れたので」
「仕事は」
少し間があった。
「……アイドルと、カフェのバイトを掛け持ちしてます」
「アイドル」
「地下アイドルです。売れてないやつです」
彼女は少し笑った。
自虐の入り方が自然だった。
慣れている人間の笑い方をしていた。
「なぜ香港に」
「なんとなく逃げたかったというか。うまくいかないことが続いてて、現実から離れたかった」
「逃げることは悪くない」
「そう思いますか」
「逃げた先でちゃんとやってれば」
彼女はエッグタルトを一口食べた。
少し考えてから、「そういう言い方をしてくれる人、周りにいないんですよね」と言った。
名前を聞いた。 ナナ、と言った。
東京の、23区内に住んでいるらしい。
格安航空券で、3万円以下で往復できたと教えてくれた。
泊まっているのは重慶大廈近くのゲストハウスで、1泊3500円だと言った。
「安く来れるもんですね」
「調べたら来れたので。香港ってそんなに遠くないんですよ」とナナは言った。「飛行機で4時間半くらいだし。むしろ思ったより近かった」
奶茶を飲みながら、しばらく話した。
ナナは今夜の予定が何もないと言った。
夕方から夜市を歩くつもりだったが、一人だと飽きると思っていると。
「夜ごはんは」
「まだ決めてないです」
俺は少し間を置いた。
「食事を提案していいですか。断っても構いません」
「……どこですか」
「中環のMott32。ご存じですか」
「知らないです」
「それならいい。19時に中環の駅で待ち合わせにしましょう」
ナナはエッグタルトの最後を口に入れてから、「行きます」と言った。
断り方はいくらでもあったはずだ。
「予定があって」「一人で回りたいから」「知らない人とはちょっと」。
選択肢はいくらでもある。でも行きます、と言った。
迷わなかった。
地下アイドルとして人前に立ち続けている女だからか、こういうときの返事が早い。
それを悪いとは思わない。むしろ話が早い。
店を出ると、テンプル・ストリートに屋台が出始めていた。
夕方が近づいている。
ナナは「じゃあ宿に戻って着替えてきます」と言って、歩き始めた。
細い後ろ姿が雑踏に消えるのを少しだけ見た。
それから俺はMTRの改札に向かった。

【Mido Cafe(美都餐室) / 基本情報】
エリア:九龍・油麻地、テンプル・ストリート63番地
特徴:1950年創業の老舗茶餐廳。香港映画のロケ地としても知られ、タイル張りの内装と古い看板は数十年変わらない。ローカルと旅慣れた者だけが立ち寄る一軒
おすすめ:港式奶茶(HK$22前後)、バタートースト(HK$28前後)、エッグタルト(HK$22前後)



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