top of page

なんとなく、台北行きにした [最終話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 4月6日
  • 読了時間: 5分

更新日:4月6日



【第4話】高雄の午後


商談は、うまくいった。

正確には、うまくいきすぎた。10時に始まって、11時半には合意の方向が見えた。3ヶ月越しの交渉が、この日の90分でほぼ決着した。こういうことが、たまにある。積み上げてきた時間が、ある瞬間に一気に収束する。

ホテルに戻ったのが12時10分だった。

スーツのジャケットを脱いで、ナツキにメッセージを入れた。


「終わった。どこにいますか」

「愛河のあたりをぶらぶらしてます」

「今から行く」

「え、はや」

12時半に合流した。

8月の高雄の昼は、容赦がない。日差しが刺さってくる。ナツキは白いワンピースに着替えていた。朝のTシャツとは違う、少し大人っぽい印象だった。見た目は童顔なのに、こういう選択をする。そのギャップが、31歳という年齢を時折のぞかせる。


川沿いの麺の店で昼飯を食べた。

ルーローハンを頼んだ。ナツキは牛肉麺を頼んで、「これ台湾来たら絶対食べたかったやつ」と言った。食べながら話した。仕事のこと。なぜ一人で台湾に来たのか。どこに住んでいるのか。

「彼氏は」と俺が聞いた。

「・・・いないです」

間があった。少しだけ。

「最近まで、いたんですか」

「なんでわかるんですか」

「なんとなく」


ナツキが少し笑った。口元を隠さなかった。ほくろが見えた。

食後、店を出た。時計を見ると午後1時50分だった。バスまであと1時間ちょっと。

「送ります」と俺が言った。

「いいですよ、そんな」

「どうせ暇だから」

ナツキのホテルに向かいながら、俺は少し考えた。

バスの時間まで、あと1時間。このまま見送れば、それで終わる。終わらせたくなかった。商談前夜に、こんな気分になるとは思っていなかった。

ホテルの前に着いた。


「バッグ、取ってきます」

ナツキがロビーに入りかけた。俺は一歩踏み込んだ。

「少しだけ、部屋で休んでいかないですか」

ナツキが振り返った。

表情を読もうとした。驚き、があった。でも、嫌悪、はなかった。その2つの違いは、はっきりしていた。

「・・・バス、あるんですけど」

「わかってます」

また間があった。

今度は長かった。3秒か、4秒か。

俺は動かなかった。急かさない。これが全てだ。この沈黙を俺が先に埋めた瞬間に、流れが変わる。変えてはいけない。


「・・・少しだけ」

ナツキが言った。

エレベーターの中で、ナツキは前を向いていた。

俺も前を向いていた。

鏡に二人が映っていた。白いワンピースのナツキと、シャツ姿の俺。身長差が15センチ以上ある。ナツキの頭が、俺の肩より低いところにある。

部屋のドアが閉まった。

ナツキはまず窓の外を見た。

高雄の昼の景色が広がっていた。スカイラインと、川と、遠くにうっすら山が見える。俺はミニバーから冷えた水を二本取り出して、一本をナツキに渡した。


「ありがとう」

小さな声だった。

水を飲みながら、ナツキはまだ窓の外を見ていた。俺は少し離れた位置に立って、同じ景色を眺めた。詰めない。焦らない。

「高雄、来てよかったと思います」

ナツキが言った。

「何が一番よかったですか」

「・・・いろいろ」

「たとえば」

ナツキが俺を見た。

「たとえば、昨日の店とか」

「他には」

ナツキが少し笑った。口元を手で隠した。でも今度は、すぐに手を下ろした。ほくろが見えた。

「他にも、いろいろ」


俺はゆっくりと隣に立った。

ナツキは動かなかった。逃げなかった、ということだ。肩が触れるか触れないかの距離になった。外から差し込む光が、ナツキの首筋に当たっていた。白い。鎖骨が浅く影を作っていた。

「緊張してる?」

「・・・してない」

「嘘だ」

「・・・してる」

正直に言えた。それで十分だった。


ワンピースの下のナツキは、思ったより大胆だった。

155センチ、48キロ。数字の通りの柔らかさと重さがあった。小柄な体の割に、あらゆるところが均整が取れている。31歳の体は、20代のふわついた柔らかさとは少し違う。もう少し、芯がある。自分の体を知っている、という感じがする。

白い背中に、シミ一つなかった。

俺は急がなかった。バスの時間があることは、お互いわかっていた。わかっていて、ここにいる。それだけの話だ。

ナツキが時折、声を抑えた。

抑えようとして、抑えきれなかった。そういう声が一番いい。作ったものじゃない。


窓から高雄の昼の光が差し込んでいた。夜じゃない。昼だ。明るい中でこういう時間を過ごすのは、また別の種類の親密さがある。お互いの表情が見える。隠せない。

ナツキの童顔が、こういう場面では少し違う印象になった。

目が潤んでいた。口元のほくろが、呼吸のたびにわずかに動いた。

俺はその顔を、ずっと見ていた。


気づいたら2時10分だった。

バスまで50分。

「先に出ます」と俺が言った。

ナツキが少し驚いた顔をした。送り出される側だと思っていたのだろう。でも何も言わなかった。

俺はシャツを着て、ジャケットを手に持った。

「台南、気をつけて」

「・・・うん」

「台北も」

「うん」

ナツキはまだベッドの上にいた。白いワンピースを抱えて、膝を少し折っていた。髪が乱れていた。整える前の顔だった。


化粧っ気のない、素のままの31歳。

こういう顔を見てしまうと、少し厄介なことになる。俺はそれを知りながら、もう一度だけ見た。

「またね」

それだけ言って、ドアを開けた。

廊下に出た。ドアが閉まった。

エレベーターを待ちながら、スマホを確認した。本社からメールが来ていた。商談の結果を受けて、追加の確認事項が3件。現実が、すぐに戻ってくる。


ロビーに降りて、ホテルの外に出た。

8月の高雄の熱気が、また顔に当たった。

うまくいった、と思った。商談も。それ以外も。全部うまくいった日だった。

歩き始めて、3分後にLINEが来た。

ナツキからだった。

「バス、台南行きじゃなくて台北行きにした」

俺は立ち止まった。

「なんで」

「なんとなく」

1分後、もう一通来た。

「台北、Mさんが好きなご飯屋さん教えてください」

俺は少し笑った。

うまくいきすぎた、と思った。

商談と同じだ。積み上げてきた時間が収束するとき、想定より大きく転がることがある。

それが誤算なのか、それとも僥倖なのか。

高雄の熱気の中で、俺にはまだ判断がつかなかった。


<完>



コメント


bottom of page