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たぶん、そういうことだと思っている [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 3月28日
  • 読了時間: 4分

更新日:3月30日



【第2話】現地、夜の前


現地に着いたのは午後3時過ぎだった。

空港を出た瞬間、熱気と排気ガスと、どこか甘ったるい屋台の匂いが混ざった空気が顔に当たった。この感覚は何年経っても慣れない。悪くはない。むしろ、これを嗅ぐたびに「来た」という気分になる。

アオイとは空港で別れた。

「じゃあ、夜に」

それだけ言って、俺は迎えの車に乗った。アオイはタクシー乗り場の方へ歩いていった。セミロングの黒髪が人混みの中に消えるのを、バックミラー越しに一瞬だけ見た。


仕事が入っている。当然だ。これは出張だ。

ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。取引先との打ち合わせは4時から2時間。その後、軽く会食が入っている。終わるのは9時過ぎになる見込みだった。

アオイに連絡を入れた。

「9時半に終わる。遅くなるけど大丈夫ですか」

既読がついた。返信まで8分かかった。

「大丈夫です」

その3文字を見て、俺は少し笑った。


打ち合わせに入ると、頭は完全に仕事に切り替わった。これは意識してそうしているわけじゃない。長年の出張で、脳がそういう構造になっているんだと思う。仕事の時間は仕事。それ以外の時間は別の何か。区切りがはっきりしている方が、どちらも上手くいく。

会食は取引先の部長が上機嫌で、話が少し引き延びた。

9時10分に俺は席を立った。「明日早いので」と言った。嘘だ。翌朝の予定は11時からだ。でもこういう嘘は必要な嘘だ。誰も傷つかない嘘には、罪悪感を持たないことにしている。


ホテルに一度戻って、スーツを脱いだ。

鏡を見た。37歳。自分で言うのも何だが、年齢なりには見える。悪くはないが、若くもない。アオイは23か24。この年齢差は武器にもなるし、邪魔にもなる。14歳差を意識させると重くなる。意識させなければ、ただの「少し年上の男」で済む。どちらになるかは、こっちの動き方次第だ。

9時40分にロビーを出た。


アオイが指定してきた場所は、ホテルから徒歩10分ほどの川沿いだった。夜でも明るい通りで、飲食店が並んでいる。観光客向けの場所だが、悪くない選択だと思った。初めての土地で、夜、男と二人。それでも屋外の人通りのある場所を選ぶ。警戒心がある、ということだ。

警戒心のある女の方が、崩れたときの落差が大きい。

アオイは先に来ていた。

白いブラウスから着替えていた。少し落ち着いた色のワンピース。首元が少し開いている。鎖骨が見えた。

機内より、いい。


「待ちました?」

「少しだけ」

「ごめんなさい」

「いや、仕事ですから」

川沿いのオープンエアのレストランに入った。アオイはメニューを開いて、「何が美味しいかわからない」と言った。

「俺も初めての店だけど」

「え、じゃあ一緒に迷子ですね」

また笑った。えくぼ。

ビールを頼んだ。アオイも同じものを頼んだ。

話し始めると止まらなかった。出身、仕事、なぜ友達と海外旅行に来たのか、なぜ別便になったのか。アオイは話すのが好きな方だった。俺は聞く方に徹した。


聞く、というのは技術だ。ただ相槌を打てばいいわけじゃない。相手が話したいのに少し手前のところで止まっているとき、そこを軽く引っ張ってやる。「それで?」でも「どうして?」でもなく、もっと小さな引き。目線を向けるとか、沈黙をわずかに置くとか。そういうことの積み重ねで、女は「この人には話せる」という感覚を持ち始める。その感覚が、距離を縮める。言葉より先に体が近づく前に、まず心の距離が動く。


アオイが言った。

「Mさんって、彼女いるんですか」

俺は少し間を置いた。

「いない」

「・・・なんで」

「なんでって、そういう時期があるでしょう」

「でも、不思議」

不思議、という言葉を、彼女はどういう意味で使ったのか。見た目の話なのか、年齢の話なのか、それとも今夜の俺の動きを見て言っているのか。判断しかねた。ただ、悪い文脈ではないと思った。


ビールが2杯になり、料理が来て、また話した。

時計を見たら11時を過ぎていた。

「明日、友達と何時に合流するんですか」

「昼過ぎ」

「じゃあ急がなくていいか」

「・・・うん」

その「うん」の温度を、俺はすぐに読もうとして、やめた。読みすぎると動きが速くなる。速くなると雑になる。ここは焦らない。

会計を俺が持った。アオイが「割り勘で」と言ったが、「次の機会に」と返した。次の機会、という言葉を俺は意図的に使った。「また会う前提」を、自然な流れの中に滑り込ませる。強引な誘いじゃない。ただの事実の先出しだ。


店を出た。

川沿いを少し歩いた。アオイが「きれいですね」と言った。川の夜景を見ていた。俺はアオイを見ていた。

「ホテル、どこですか」

アオイが聞いた。

俺は答えた。

「・・・近いですね」

「うん」

また沈黙があった。俺は動かなかった。

この沈黙が、どちらに転ぶかを俺は知っていた。というより、どちらに転ぶかは、もうほぼ決まっていた。あとはアオイが自分の中で何かに折り合いをつける時間を、俺がちゃんと与えられるかどうかだけの話だった。

急かすな。

ただそれだけだ。

「・・・少しだけ」

アオイが言った。

何が「少しだけ」なのか、俺は聞かなかった。

聞く必要がなかった。







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