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たぶん、そういうことだと思っている [第1話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 3月27日
  • 読了時間: 4分

更新日:6 日前




【第1話】隣の気配


搭乗してシートに腰を落とした瞬間、気配がした。

通路側に座った俺の左、窓際に女が滑り込んできた。

セミロングの黒髪。白いブラウス。158センチ前後、体重は40台後半といったところか。

顔は整っている。化粧は薄め。いわゆる「作った美人」じゃない。素のまま可愛い、という種類の女だった。


年齢は23か24。せいぜい25。

俺は視線を戻してスマホの資料に目を落とした。動かない。これが鉄則だ。

出張は慣れている。4大商社の自動車部門に入って15年近く、アジア・欧州を行き来し続けてきた。たいていは部下の山田を連れていく。奴がいると雑務を任せられて楽なのだが、今回は別件で飛ばせた。久しぶりの一人出張だった。


一人の出張は嫌いじゃない。誰の目も気にしなくていい。空港のラウンジでコーヒーを一杯飲んで、資料を眺めて、搭乗する。それだけの時間が、妙に好きだった。日常の重力から少しだけ解き放たれる感覚がある。

機内が動き始めた頃、隣の女がシートベルトの金具を探してもたついていた。

俺は何も言わなかった。

手伝うのは簡単だ。でも簡単すぎる動きは、薄い。女はたいてい「助けてもらった感謝」と「なんかこの人いるな」の区別がつかない。それを混同させてもしょうがない。俺が欲しいのは感謝じゃない。

彼女が自分でベルトを留めたのを横目で確認して、俺は窓の外に視線を向けた。


離陸した。

機内が安定して、シートベルトサインが消えた頃、彼女が文庫本を開いた。カバーがかかっていて何かは見えない。読書をする女というのは悪くない。少なくともスマホでリール動画を無限にスクロールしているよりは、話が早い可能性がある。これはただの偏見だが、偏見には経験が詰まっている。

俺はドリンクを頼むタイミングで声をかけた。

「何読んでるんですか」


我ながら凡庸な入りだと思った。だがここで奇をてらっても仕方ない。会話の入り口は狭くていい。狭い入り口を堂々とくぐることの方が、ずっと難しい。

「・・・えっ、あ」

彼女は少し驚いた顔をした後、カバーを外してタイトルを見せた。村上春樹だった。どの作品かは伏せる。

「好きなんですか、村上春樹」

「好きっていうか、友達に薦められて」

「飛行機で読む本を人に決めてもらうのか」

「そういうわけじゃないけど」

彼女は少し笑った。口元に小さなえくぼがある。気になった。

ここで俺は一回止めた。追いすぎない。女との会話は、追えば逃げる。止まれば寄ってくる。これは自然の摂理に近い何かだと思っている。


CAがドリンクを持ってきた間、俺は窓の外を見た。彼女は本に視線を戻した。

それでいい。

5分後、彼女の方から口を開いた。

「お仕事ですか、この便」

手応えがあった。これは向こうから距離を詰めてきた、ということを意味する。先ほどの会話が、彼女の中で何かを動かしたのだ。小さくガッツポーズをしたかったが、当然そんなことはしない。俺はスマホから顔を上げて、「まあそうです」と短く返した。

「どんなお仕事ですか」

「商社。自動車の部署」

「車、詳しいんですか」

「詳しくはない。数字と人間関係が仕事なんで」

「・・・なんか、かっこよく聞こえる言い方ですね」

彼女が笑う。さっきより笑顔が深い。えくぼが濃くなった。


俺は内心で小さく舌打ちをした。まずい。こういう笑顔を見ると、少し欲が出る。欲が出ると動きが雑になる。経験上、そういうときに限って取りこぼす。

落ち着け、と思った。

「あなたは」

「私は・・・旅行です。友達と」

「今回は一人みたいだけど」

「友達は別の便で。現地集合で」

なるほど、と俺は思った。23前後、友人との海外旅行、単独搭乗。実家暮らしか一人暮らしかはまだわからないが、少なくとも彼氏は今この場にいない。それだけで十分だった。


「何泊するんですか」

「5泊。でも友達と合流してからは4日だけど」

「ってことは、着いてから一人で1日あるんだ」

「そうなんですよ、どうしようと思って」

「夜は一人ですか」

「・・・たぶん」

間があった。俺はその間を潰さなかった。この「たぶん」の後の沈黙を埋めてやる必要はない。埋めてしまえば、女は考えるのをやめる。考えさせることで、向こうが自分で答えを出す。それを待てるかどうかが、この手の場面での分岐点だと俺は思っている。


「じゃあ夕飯でも」

彼女が言った。

俺じゃなく、彼女が言った。

これが重要だった。俺が誘うんじゃなく、向こうから出てきた言葉。この差は、後になって大きく効いてくる可能性がある。女が自分で口に出した言葉は、女自身が取り消しにくい。心理的な拘束力が違う。

「いいですよ」

俺は短く返した。それだけでいい。ここで喜んでみせる必要はない。

連絡先を交換した。


彼女の名前は、仮にアオイとしておく。

着陸まであと2時間半。俺はまた資料に目を落とした。仕事の続きだ。アオイは村上春樹に戻った。ただ、さっきより本の持ち方が緩い気がした。

俺の気のせいかもしれない。

でも、気のせいじゃない可能性の方に賭けていた。




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